新しい革命と新しい党(1)   ―先進国革命論についてのノート―

松江 澄   労働運動研究 第54号 S4941

目次

(一)ロシア革命とヨーロッパ革命

一.世界革命と一国革命

二.ロシア革命の特殊な条件

三.ヨーロッパ革命について

 

現代先進国についての「新しい革命と新しい党」の追求がはじまってから、すでに久しい。私自身この中に投げ入れられてからも、すでに十二年たった。しかしわれわれがやりとげたものは余りのも少なく、主としていえば失敗の連続であったかも知れない。われわれの運動がはじまってからでも、日本的構改論、世界革命論など多くの革命論の影響を受け、また受けなかった。さらに七〇年代に入ってからからは、こうした「理論」以上に多くの事実と闘争の渦中に、あるいはその外にあった。

 考えてみると、われわれはまだ何ほどのこともやり得ていない。しかし事実は毎日毎日進行しつつあり、その中でわれわれは何かをおこなっている。しかし重要なことは、その何かが今日の革命とどうかかわっているのか、いないのかということである。それはいわゆる革命的な「根性」がなければできないが、また「根性」だけでもできないものであろう。もしマルクス主義者であろうとすれば、今後、革命にとって何が起きるのか、何をしなければならないのか、われわれの活動とどこでどう結びついているのか、を探求しなければならぬ。そこで私は、自分の模索しているものを思いきって提起し、集団的な検討の素材としたい。いわば私の先進国革命論についての「ノート」でしかないが、何かの役に立つ「ノート」でありたい。それは始めて共産主義運動に参加して以来、理論的というより肉体的に私の中に入りこんでいた――の再検討と、不勉強な私にとってはじめてといってよいマルクス主義の創始者と先覚者たちの古典を「自由」に追求しなおすことからはじまっている。つづいてヨーロッパ共産党の若干の諸テ−ゼ――これもまた、いわば先験的に私の中に定着していた――を事実の発展からみなおすという作業が必要であった。そうして最後に、私に多くの影響を与えていた、いわゆる構造改革論あるいは反独占民主改革について、もう一度疑ってみる必要があった。こうした追求は決して単なる「理論」的関心からではなく、事実と運動から求められているのである。

 これはいわば私のメモにすぎない。大きな山の一角にやっととりついた今、今まで追求してきたものよりはるかに多くの、そして大きな課題が私とわれわれを待っている。しかし、それがどんなに困難であろうとも、われわれはみきわめなればなるまい。

 

(一)ロシア革命とヨーロッパ革命

一.世界革命と一国革命

 ここ数年来、世界革命と一国革命の問題が改めて討論の爼上にのぼっているのは、理由がないわけではない。それは一つには、かねてから問題になっていたスターリンの「一国社会主義革命」論に関する定式化の批判からであり、他の一つは、今日ほど世界が「縮小」され、一つの国の経済的、政治的危機がすばやく他の諸国に伝播し、地球の一部でおきた闘いが、多かれ少なかれその全面に影響をおよぼすような時代は、かつてなかったからである。これは二つであって実は一つの問題である。

 スターリンは次のように定式化している。

 「以前には、一国における革命の勝利は不可避だとみなされ、ブルジョアジーに勝利するためにはすべての先進国の、すくなくとも大多数の先進国のプロレタリアがいっしょに行動することが必要だと考えられていた。いまでは、この見地はもはや現実にそわなくなっている。いまでは、このような勝利が可能であるということから出発しなければならない。」なぜなら、定国主義の情勢のもとでの種々の資本主義国の発展の不均等で飛躍的な性格、不可避的な戦争をまたらす帝国主義内部の破局的な矛盾の発展、世界のすべての国における革命運動の成長――こうしたことはみな、個々の国におけるプロレタリアートの勝利が、可能であるばかりでなく必然的でもあるという結果をもたらすからである。ロシア革命の歴史は、それを直接に証明している。」(1)

 ここでスターリンが、「以前には一国における革命の勝利は不可能だとみなされ」ていたと指摘しているのは、エンゲルスが「共産主義の原理」の中で、「大工業は、文明諸国における社会の発展を、すぐに均等にしてしまっている」から、「共産主義革命はけっして一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで同時に起こる革命となるであろう」(2)といつていること、また「共産党宣言」の中の、「すくなくとも文明諸国の共同行動が、プロレタリートの解放の第一条件のひとつである」とのべていることを指していると思われる。またそれに対して、「一国社会主義革命の勝利」の可能性と必然性を主張している根拠が、レーニンの「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」「プロレタリア革命の軍事綱領」等の中でのべられている有名な定式であることも周知の事実である。とくにレーニンは、「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」(一九一五年)では、「経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である」から「社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただ一つの資本主義国ででも可能である。」(3)とのべているが、翌年かかれた「プロレタリア革命の軍事綱領」(一九一六年)では、このテーゼをさらに発展させて、「社会主義はすべての国で同時に勝利することはできない。」(4)と断定している。このような「可能性」から「必然性」への発展の根拠と理論について、レーニンのくわしい説明をきくことはできないが、これはその限りではスターリンがいうようにマルクス主義革命理論の新しい発展である。

 ところが上田耕一郎は、このままではスターリン理論を是認することになって困るとでも思ったのか、何とかしてマルクス・エンゲルスとレーニンの間をとりもとうとして一生懸命である。上田は、「一国社会主義革命の勝利」ということばの「多義性」を文献学的に展開しながら、「」スターリンが引用した『原理』の当該箇所のなかでさえエンゲルスは、一方では『文明諸国における社会発展』の『均等』を指摘しながらも他方では、『この革命が』工業、生産力の発達の水準などそれぞれの国の条件にしたがって、『急激に、あるいは緩慢に発展するだろう』とのべ、革命の発展の不均等性をも指摘している。」(5)という。たしかにマルクスは上田も引用するように、「ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、内容上ではないが、形式上ははじめは一国である。どの国のプロレタリアートも、当然、まずもって自分の国のブルジョアジーをかたずけなければならない。」(6)としてきしている。またマルクスはこのことに関して、「一般に、労働者階級が闘争できるためには自国内で自己を階級として組織しなければならないこと、自国が彼らの直接の闘争の舞台である。」(7)ともいっている。新しい左翼セクト諸君のいわゆる「世界革命論」のまちがいは、ことばではなく実際に、開始される革命の国民的な「形式」まで否定し、他国の「舞台」にばかり熱中して、労働者階級が「自国内で自己を階級として組織しなければならないこと」を忘れているばかりではない。彼らは「内容」上も、各国革命を世界革命という本質が展開する現象形態としてとらえることによって、初期マルクスを通り越してヘーゲルの観念弁証法にまで逆戻りしている点にある。

 マルクス・エンゲルスは、ヨーロッパの革命が国民的な革命として開始されながら、世界革命としてのみ発展しうるという意味で「同時革命」という規定をあたえている。しかしマルクスの射程の中にあった革命的世界は、先進的なヨーロッパ――イギリス、アメリカ、(ヨーロッパ世界の一員――筆者)、フランス、ドイツだったのだ。そこでは革命的な発端は不均等でも、経済恐慌――当時これがヨーロッパ革命の基盤であるとみなされていた――の連鎖の中で、不可避的に、すぐにでも、西ヨーロッパ諸国を革命のうずまきにまきこむと考えられていたとしても不思議ではない。その場合でさえ、時間的に完全な「同時」の革命などあるはずがない。したがって上田が鬼の首でもとったように引用する、各国革命が「『急激』にあるいは『緩慢』に発展する」ことは至極あたりまえのことであって、それによってマルクスとレーニンのいう「不均等性」の一致が証明されるものではない。いやそれどころか、上田のいうようことによってレーニンのいう「革命の不均等性」の意義が弱められ、不当に引き下げられるのだ。

 レーニンが指摘しているのは、マルクスやエンゲルスがいっているような「不均等性」ではない。それは単なる経済的な発展の不均等さが自動的にもたらすような「不均等性」ではなく、それは一国で権力の奪取が可能になるほどの「不均等性」なのである。上田は、スターリンが「資本主義の発展の不均等の法則の意義を事実上、政治的には帝国主義時代とだけむすびつけようとする傾向をうみだした」と非難するが、正に帝国主義時代にこそ資本主義の不均等発展の法則は、その経済的外皮をやぶって革命の不均等な発展の必然性としてあらわれる。それは帝国主義が、資本主義の自由主義時代と異なり、上部構造としての民主主義」が「政治反動」に転換し、一方では各国の経済的障壁をますますつき崩して世界的な発展をとげながらも、他方政治的には、強固な国境の防壁をきずき、自国民をますますその中に囲い込むさまざまな手段をつくりだすからである。そこにこそ革命の不均等発展の可能性だけでなく、その必然性があり、またそこにこそマルクスの生きた時代とレーニンの闘った時代の相違がある。革命の契機は、マルクスの予感した世界経済恐慌による「同時性」から、(帝国主義政治の延長)による「不均等性に移行したのである。

 しかし、マルクスもレーニンも、社会主義革命の勝利のためには、国際革命――とくに先進的西ヨーロッパの革命――が不可欠であると考える点では完全に一致していた。その意味では、レーニンもまたマルクス・エンゲルスに劣らず世界革命論者であった。レーニンは後年、「共産主義インターナショナル第三回大会」(一九二一年)で、改めて次のように語っている。

 「当時われわれが国際革命を開始したとき、われわれがそうしたのは、国際革命の先鞭を付けることができると信じたからではなく、幾多の事情のため、この革命を開始せざるをえなかったからである。われわれは次のように考えた。あるいは国際革命がわれわれを応援してくれるか――そのときにはわれわれの勝利は完全に保障される――あるいはそうではなくて、敗北したばあいには、それでもやはりわれわれは革命の事業に奉仕することになるし、われわれの経験は他の国々の革命の役にたつであろうという意識をもって、われわれのささやかな革命活動をはたそうと。国際的な世界革命の支援がなければ、プロレタリア革命は勝利できないといことは、われわれには明らかであった。革命前にも、また革命後にも、われわれはつぎのように考えていた。資本主義的に、いっそう発展した他の国々に、いますぐにか、そうでもないまでも、すくなくともきわめて早急に、革命がおこるであろう。もしおこらないなら、われわれはほろびるにちがいないと。このように意識していたにもかかわらず、われわれは、あらゆる状況のもとで、なにがなんでもソビエト制度を維持するためにすべてのことをした。というのは、われわれは自分自身のために活動しているだけでなく、国際革命のためにも活動しているのだということを、われわれはしっていたからであり。」(8)

 運動はレーニンの予想したように一直線にはすすまず、期待した西ヨーロッパの革命はおきなかった。こうして国際革命の発端としてはじまり、社会主義革命の前衛となったロシア革命は、単独のままでプロレタリア権力の維持と社会主義の建設にすすまなければならなかった。その意味での「一国社会主義革命」は、スターリンが定式化したように、けっして「理論」からでなく、事実と事情からして余儀なくされたものであり、歴史によって「強制」されたものであった。

 結局スターリンの誤まりは、レーニンの「一国社会主義革命」論を定式化したことにあったのでもなく、また、マルクス・エンゲルスの世界革命論をレーニンが発展させたと定式化したことにあるのでもない。スターリンの誤まりは、レーニンの「一国社会主義革命」論――それはマルクス・エンゲルスの世界革命論の新しい発展であるが――を、事実上世界革命ときりはなした「一国社会主義革命」としてふるまったことにあり、とくに、歴史によって余儀なくされた「一国社会主義革命」をはじめから当然のことのように「理論」化し、プロレタリア独裁論の修正を合理化したことにある。そうしてその誤りは、ロシア革命のもつ特殊な条件を一般化することにより、コミンテルンを通じて世界各国の革命運動にたいしてかなり長い期間、悪い作用と影響をおよぼしたことである。したがって「一国社会主義革命」についての再検討は、ただスターリンにすべての罪をかぶせることですむものではない。sおれはスターリン理論を再批判しつつ、一国社会主義建設をよぎなくされた歴史的状況と、そうした歴史的状況の下で何をなすべきかを追求することにある。それはまた、最も近代的な生産手段を労働者階級の手中におさめることによって、、発達した生産力を基礎とした世界社会主義革命の勝利のために闘う先進国プロレタリアートと、その党に課せられた国際的任務とその自覚を抜きにしては、語ることはできないものである。

(註)

(1)スターリン「レーニン主義の基礎」(国民文庫)四六頁。

(2)エンゲルス「共産主義の原理」(全集第四巻)三九二頁。

(3)レーニン「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」(全集第二一巻)三五二頁。

(4)レーニン「プロレタリア革命の軍事綱領」(全集第二三巻)八二頁。

(5)上田耕一郎「先進国革命論」(大月書店)一九頁。

(6)マルクス・エンゲルス「共産党宣言」(全集第四巻)四八六頁。

(7)マルクス「ドイツ労働者党綱領評注」(全集第一九巻)二三頁。
(8)レーニン「共産主義インターナショナル第三回大会」(全集第三二巻)五一一〜五一二頁。

 

二.ロシア革命の特殊な条件

 

「おくれた」ロシアの革命の特殊な条件を明らかにすることは、「進んだ」西ヨーロッパの革命と追求する上で重要な意義をもっている。それではロシア革命の特殊な条件とは何か。レーニン自身もそれを重視して、「プロレタリアートの独裁を実現し、ソビエト共和国を組織した、国が、ヨーロッパでもっともおくれた国の一つであったというようなことがどうしておこったのか?」(1)と問い、「どんなマルクス主義者での、総じて現代科学に通じているどんな人でも、『いろいろの資本主義国が均等に、あるいは調和と釣合いをたもって、プロレタリアートの独裁にうっていくことは、ありそうなことか?』と質問されたら、きっとそれはりそうもないと、こたえるであろう。資本主義の世界には均等も、調和も、釣合いも、かつてなかったし、またあり得なかった。どの国も資本主義と労働運動のなんらかの側面または特徴を、または一群の特質を、とくにきわだって発展させた。発展の過程は不均等にすすんだ。」(2)と答えている。しかし、マルクス主義の創始者たちも、ロシアにおける革命をまったく予想しなかったわけではない。

「共産党宣言」についてマルクスは、後年も、歴史的文献としてその基本的な正しさを再確認しながら、「宣言」ののべている具体的な事実と情勢については、すでに「時代おくれ」になっていることを、その後つけた各種の序文で明らかにしている。とくに一八八二年の「ロシア語版序文」では、新しい情勢の発展の中でのロシア革命の展望について次のように語っている。

「その当時(一八四八年一二月)プロレタリア運動がまだどんなにかぎられた地域にしかおよんでいなかったかは、宣伝の最後の章、さまざまな反政府諸党にたいする共産主義者の立場という章が、このうえなくはっきり示している。つまり、そこには、ほからなる――ロシアと合衆国が欠けている。・・・・・・・(中略)

それが今ではなんという変りようだろう!(以下アメリカについての文章略)

それではロシアはどうか!一八四八――四九年の革命のときには、ヨーロッパ君主たちだけでなく、ヨーロッパのブルジョアもまた、ようやくめざめかけていたプロレタリアートから自分たちを守ってくれる唯一の救いは、ロシアの干渉であると見ていた。ツァーリはヨーロッパの反動派の首領である、と宣言された。今日では、彼はガッチナで革命の捕虜となっており、ロシアはヨーロッパの革命的行動の捕虜となっている。

 ・・・・・(ロシアの「農民共同体」が直接的に共産主義的共同所有に移行できるか、を問いかけた後)

この問題にたいして、今日与えられることのできるただ一つの答は次のとおりである。もしロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有性は共産主義的発展の出発点となることができる。」(3)

ここでは、あり得べきロシア革命について語っているばかりでなく、ロシア革命と西ヨーロッパ革命との関係について、重要な指摘をしている。マルクス主義の創始者たちにとっては、すでに六〇年代以降からロシア革命はその射程に入っていたということができよう。しかしそのことは、マルクス・エンゲルスにあっても、決して予想どおりのできごとあったわけではない。何故ならばマルクスもエンゲルスも、基本的には、「産業ブルジョアジーの支配の下で産業プロレタリアートは、はじめて、自己の革命を国民的革命へとたかめることのできる広大な国民的存在」となること、したがって、「産業ブルジョアジーの支配がはじめて、封建社会の物質的な根をひき抜き、そのうえでのみプロレタリア革命をおこなうことのできる基礎をならすのである。」(4)と考えていたからである。また、レーニンも、あらかじめすべてを見とうし、ロシア革命の必然性を予知した上で準備したわけではない。レーニン自身も、一九一七年――革命の年だ!――スイスで青年たちに、「われわれ老人は来るべき革命を見ることはできないが、諸君には可能である」と語っている。革命はいつもこのようにして、少なくとも、はじまるのだ。そこで、ロシア革命の特殊な条件と、はじまったプロレタリア権力が維持できた当時の特殊な情勢を明らかにする必要がる。

まず、はじまったばかりのロシア革命が、どうして維持できたかについて、レーニン自身が語るのを聞こう。それは同時にヨーッパ革命との関係を明らかにすることにもなる。

「われわれの若い友人のきわめて多くのものは、もっとも重要なことを、つまり、十月革命後の偉大な凱旋の数週間、数ヶ月間には、なぜわれわれは凱旋から凱旋へと、あのようにたやすくうつる可能性をえたかということをわすれはじめている。ところがそれがそうであったのは、ただ特異な国際的情況が一時われわれを、帝国主義から掩護したからであった。帝国主義はわれわれどころではなかった。われわれもまた帝国主義どころではないと、われわれにはおもわれた。だが、個々の帝国主義者たちがわれわれどころではなかったのは、ただ、今日の世界帝国主義の最大の社会的、政治的および軍事的な力全体が、この当時、内輪の戦争によって、二つのグループに分裂していたからにすぎなかった。この闘争にまきこまれた帝国主義的強盗どもは、信じられないほどの極端にはしり、死闘をやりだし、二つのグループのどちらも、ロシア革命にたいしていくらかでも重大な勢力を集中することができなかったのである。われわれは、十月には、ちょうどこのような時期に際会していた。わが国の革命はちょうどこの絶好の時期に――これは逆説的であるが正しい――、すなわち、前代未聞の災厄が、数百万の人間を絶滅させるという形で、大多数の帝国主義諸国にふりかかっていた時期に、戦争が未曾有の災厄によって諸国民をくるしめていた時期に、戦争の第四年目に交戦諸国が袋小路に、岐路にさしかかった時期に際会していたのである。わが国の革命が、この絶好の時期に、すなわち、二つの巨大な強盗グループのうちのどちらも、すぐには相手におそうかかることもできなければ、われわれとたたかうためにいっしょになることもできなかったこの時期に、際会していたからこそ――ヨーロッパ・ロシアで輝かしい凱旋行進をやり、フィンランドにとび、さらにカフカーズやルーマニアで闘いをはじめるために、わが国の革命は政治的および経済的国際関係のこの時期だけを、利用することができたし、また実際に利用したのである。」(5)

ここには、当時の国際情勢のなまなましい把握がある。そうして、長い歴史の中では必然的であるにせよ、少なくともその渦中では思いがけずあらわれてくる数々の歴史の偶然をすばやく見抜き、いちはやく利用したレーニンの天才がある。

それでは、ロシア革命――おくれたロシアのプロレタリア革命――を「はじめることはたやすかった」政治的理由は何であろうか。レーニンは、「私はすでに何度かつぎのように言ったことがある。ロシア人には、偉大なプロレタリア革命をはじめることは先進諸国に比べてたやすかったが、この革命をつづけ、社会主義社会の完全な組織化という意味での最後の勝利までやりとおす小とは、より困難であろう」と。その理由としてレーニンは、次の六点をあげている。

第一、「ツァーリ君主制が政治的に異常おくれていたため、大衆の革命的襲撃が異常な力をもった」こと。

第二、「ロシアのおくれていることが、ブルジョアジーにたいするプロレタリア革命と地主にたいする農民革命とを独特の形で融合させたからである」こと。

第三、一九〇五年の革命において、西欧のすすんだ社会主義の吸収とその行動で、「労働者、農民大衆の政治的訓練のために多くのことをなしとげた」こと。

第四、「地理的条件のおかげで、ロシアは、資本主義的先進国の軍事的優勢にたいして、ほかのくによりも長くもちこたえることができた」こと。

第五、「プロレタリアートと農民の独特の関係がブルジョア革命から社会主義革命にうつることを容易にした」こと。

第六、「ストライキ闘争という長期の学校とヨーロッパの大衆的労働運動の経験とが、深刻な、急速に激化していく革命的情勢のもとで、ソビエトのようなプロレタリア革命組織の独特の形態の発生を容易にした」こと。(6)

この中で、どくにロシア革命の特殊性を際立たせてものに、第二と第五の理由がある。

マルクスも、一八四八年フランスの「二月革命」を分析した「フランスにおける階級闘争」では、すでにふれたように、資本主義の発展によって「プロレタリアートが大多数となり、「広大な国民的存在」となることをプロレタリア革命の必須の前提としていた。したがって、「二月革命」当時は、プロレタリアートはパリをはじめいくつかの工業中心地でこそ主要な階級であったが、全国的には、「圧倒的多数の農民や少ブルジョアジーのあいだにまじって、ほとんどかげを没している」という状態のもとで、「プロレタリアートの闘いは革命の国民的内容となることはできなかった。」したがって、「パリのプロレタリアートが、自己の利益を、社会そのものの革命的利益として貫徹しようとしないで、それをブルジョア的利益とならんで貫徹しょうとつとめたこと、彼らが三色旗にゆずって赤旗をひきおろしたことほど、もっともまことはない。」(7)と。しかし、ロシアでは、正に赤旗が「三色旗に」ゆずらせたのだ、力と指導とで。それは急激に発展したロシア資本主義とおくれた農民的ロシアとが、戦争という身曾有の災厄の中で併存していたという客観的条件と、すぐれて正確で大胆なレーニンとボルシェビキの戦術と行動とが、歴史上まれにみる特殊な結合をとげたことから生まれた。

そういう意味では、ロシア革命はグラムシのいうように、「事実よりもイデオロギーにささえられ」た革命であり、「『資本論』に反する革命」であった。それは、「西方型の文明がうちたてられるまでは、プロレタリアートの反抗や、階級的要求や革命については考えることさえできない、という宿命的必然性の批判的証明だった。だが事実はイデオロギーをのりそえた。史的唯物論の教条にしたがえば、ロシア史はその批判的図式の枠内で発展しなければならなかったであろうが、事実がその図式を粉砕してしまったのだ。」(8)そうしてそれはまたしたがって、少数派によってはじめられた革命でもあった。ローザ・ルクセンブルクがいうように、「道は、多数を通って革命的戦術へでなく、革命的戦術を通って多数へと通じて」(9)いたのである。

それにくらべてヨーロッパ革命はどうであったか。

(注)

(1)レーニン「第三インターナショナルとその歴史上の地位」(全集第二九巻)三〇五〜三〇六頁。

(2)同前。

(3)マルクス・エンゲルス「共産党宣言・一八八二年ロシア語版序文」(全集第四巻)五九二〜五九三頁。

(4)マルクス「フランスにおける階級闘争」(全集第七巻)一七頁。

(5)レーニン「ロシア共産党(ボ)第七回大会」(全集第二七巻)八六〜八七頁。

(6)同前。

(7)マルクス「フランスにおける階級闘争」(全集第七巻)一八頁。

(8)グラムシ「資本論に反対する革命」(選集第五巻)一四六頁。

(9)ロ−ザ・ルクセンブルク「ロシア革命論」(選集第四巻)二三五頁。

 

三.ヨーロッパ革命について

 

 マルクス主義の創始者たちやレーニンが、当時の先進国であるヨーロッパ革命について、どのように考えていたかを探求することは、今日の先進国革命にとって重要である。それは今日の先進国革命の歴史的な源流を明らかにするだけでなく、マルクス主義の先覚者たちが当時の先進国諸国の変革について、どんな方法で分析と追求をおこなっていたかを知ることができるからである。

レーニンは、ロシア革命の特殊性を明らかにする中で、その対照としてヨーロッパ先進国の革命について幾度もふれている。彼は、はじめることは「羽毛をもちあげるように」容易であったが、つづけけることはきわめて困難であったロシアにくらべて、「ドイツのように高度に発達した国、みごとに組織されたブルジョアジ−のいる国で革命がおこることは、おそろしく困難であるが、革命がヨーロッパの先進諸国で勃発し、燃えはじめてのちは、社会主義革命を勝利をもって完成することは、それだけいっそう容易であろう。」(1)といっている。またレーニンは、ヨーロッパ革命の過程についてくりかえし、「事件ははるかに複雑な形をとって、はるかに急速にすすむであろうし、転換はもっと複雑になるであろう」(2)と指摘している。そうして、ロシア革命の困難さを語るとともに、「いま必要なことは、革命を根本的に準備し、先進的な資本主義諸国における革命の具体的な発展をふかく研究することである。」ことを重視し、「第一には、プロレタリアートの多数者の獲得について。資本主義的に発展した国々でプロレタリアートが組織されていればいりほど、われわれがそれだけ根本的に革命を準備することを歴史は要求しており、そしてわれわれはそれだけ根本的に労働者階級の多数者を獲得しなければならない。第二には、工業的に発展した資本主義諸国における資本主義の主要な支柱は、正に労働者階級のうち第二および第二半インターナショナルに組織された部分である、ということである。」(3)と述べ、少なくとも権力獲得以前の多数者獲得を否定した一九一七年以前のロシアとは異なった戦術を提起している。また、レーニンは、「資本主義が発達し、最後の一人まで民主主義的文化と組織性が与えられている国では、準備もなしに革命をはじめることはまちがいであり、ばかげている。」(4)といい、ロシアにくらべて「西ヨーロッパの諸国では、革命をはじめるほうがむつかしいが、それは、文化の最高の思想が革命的プロレタリアートに対立していて、労働者階級が文化的な奴隷状態にあるからである。」(5)と、文化的、イデオロギー問題についての重要な指摘をおこなっている。

しかし、こうした諸問題は、レーニンがはじめて語ったわけではない。マルクス・エンゲルスもすでに早くから着目しているが、それはけっして最初からではなく、歴史の苦い教訓からであった。エンゲルスは、「フランスにおける階級闘争」の序文(一八九五年版)で、一八四八年の敗北にひきつづく闘争の期待が失われたのち、「革命期の第一局面が終わったこと、そして、新しい世界経済恐慌が勃発するまではなにごとも期待できないということを、すでに一八五〇年秋に声明したのだ」が、「歴史はわれわれの考えをまた誤りとし、当然のわれわれの見解が一つの幻想であったことを暴露した。歴史はそれ以上のことをした。歴史はわれわれの当時の誤りを打ち破ったばかりでなく、プロレタリアートが闘争すべき条件をすっかり変革してしまった。一八四八年の闘争方法は、今日では、どの面でも時代おくれとなっている。」と述べ、その変化の内容をつぎのようにいっている。

「国民間の戦争の条件も変化したが、それに劣らず階級闘争の諸条件も変化した。奇襲の時代、無自覚な大衆の先頭にたった自覚した少数者が遂行した革命の時代は過ぎ去った。社会組織の完全な改造ということになれば、大衆自身がそれに参加し、彼ら自身が、なにが問題になっていryか、なんのために彼らは肉体と生命をささげて行動するかを、すでに理解していなければならない。このことこそ、最近五〇年の歴史がわれわれに教えてくれたのだ。だが、大衆が何をなすべきかを理解するために――そのためには、長いあいだの根気づよいしごとが必要である。して、この仕事をこそ、まさにいまわれわれがおこなっており、しかも、敵を絶望におとしいれるところの成功をおさめつつあるのだ。

 ・・・・・一般にいろいろの事情が反乱者の奇襲のためには、ドイツにくらべてはるかに有利であるが、そのフランスにおいてさえも、社会主義者は、あらかじめ人民の大多数を、すなわちこの国では農民を、獲得しないかぎりは、永続的な勝利はあり得ない、ということをますます悟っていきている。

・・・・・この勢いですすめれば、われわれは、今世紀の終わりまでには、社会の中間層、小ブルジョアや小農民の大多数を獲得して、国内の決定的な勢力に成長し、他のすべての勢力は、欲すると欲しないとにかかわらず、これに屈しなければならなくなる。この成長を不断に進行させて、ついにはおのずから今日の統治制度の手におえないまでにすること、<この日々増強する強力(ゲバルト)部隊を前哨戦で消耗させないで、決戦の日まで無傷のまま保っておくこと>これがわれわれの主要任務である。」(6)

ここでエンゲルスが多数を獲得するために新たに発見した闘争手段の一つは、選挙と議会闘争である。しかし、こうした議会闘争でヨーロッパ最大のプロレタリア党隣、第二インターナショナルの頭目であったドイツ社会民主党も第一次大戦の前夜には、その議会主義のゆえに「祖国擁護」へと右旋回し、排外主義者と闘う革命的共産主義者はローザ・ルクセンブルク、カール・リーブネヒトらの少数派となって革命は敗北した。マルクス・エンゲルスは労働者の主体的な闘いの発展から経済恐慌という革命の客観的条件の洞察へ、またふたたび新しい階級闘争の条件の変化から労農同盟=多数派形成へと、自己批判をふくむ不断の追求をつづけ、ついに発見した新しい戦術と運動形態の発展もまた歴史によってほうむられた。しかし、すでに早くから探求され、提起され、実践され、また敗北した先進国革命の新しい試みは、われわれにどんなに多くの教訓と激励をあたえていることか。

ヨーロッパ先進国革命に関連してもう一つの重要なことは、世界革命ないし西ヨーロッパ革命と個々の国の革命との関係である。マルクスは当時の「イギリスはブルジョアジ的宇宙の造物主である」と規定して次のように指摘する。

「恐慌がまず最初に大陸に革命をひき起こすとしても、それらの革命の根源はやはり、いつもイギリスにある。ブルジョア的身体の末端部においては、その心臓部おけるよりも当然、よりはやく暴力的暴発が起こらざるをえない。それは心臓部においては末端部におけるよりも調整の可能性が大きいからである。他方では、大陸の諸革命のイギリスにおよぼす作用の度合いは、同時に、これらの革命がどの程度まで実際にブルジョア的生活関係をおよぼしているか、またはその革命がどの程度にその生活関係の政治的構造にふれているにすぎないかを示す寒暖時計でもある。」(7)

上田耕一郎は、「マルクスのこの文章は、世界帝国主義という鎖は、その強力な心臓部よりも、矛盾の集中した末端部の環における革命的爆発によって切断されるという、スターリンの「鎖の弱い環」の理論の基本的骨格を、すでに七五年前にあたえていたものというべきであろう。」(6)とのべている。しかし、果たしてそうであろうか。

当時イギリスは、レーニンも指摘しているように、「すでに一九世紀の半ばから、帝国主義のすくなくとも二つの最大の特徴が存在していたことにある。それは、(一)広大な植民地、(二)独占利潤(世界市場における独占的な地位の結果として)である。このどちらの点でも、イギリスは当時資本主義諸国のうちの例外であった。」(9)マルクスが見ていたのは、こうしたイギリスを中心とした経済恐慌と不可避的に結びついている大陸の革命であった。したがって「鎖の弱い環」理論をここから類推することはたしかに「大発見」かも知れぬが、実はまったくおかど違いである。

スターリンは、「革命はどこで始まるか、どこで、どの国で、資本の戦線を最初に突破するだろうか?」と問い、「資本の戦線は帝国主義の鎖か他よりも弱いところで断ちきられる」と断定し、「一九一七年には、帝国主義的戦線の鎖は、他の国々にくらべてロシアでは弱かった。だから、この鎖が断ち切られてプロレタリア革命のはけ口になったのは、そのロシアであった。」(10)という。ところが、スターリンはその同じ箇所で、「以前には、どれか一国の経済状態の見地から、プロレタリア革命の前提条件の分析をあつかうのが普通であった。だがいまではこのあつかいかたはもはや不十分である。」とくりかえしながら世界帝国主義戦線の「鎖の弱い環」を論じている。しかしマルクスは、まさにそれ「以前」に、「一国の経済状態の見地から」ではなく、イギリスを心臓部とする先進資本主義国の、うてば響くように密接な経済的関係にあった西ヨーロッパの資本主義戦線から語っているのだ。上田のいうことは、上昇期にあった当時のブルジョア世界と、「矛盾の結節点」をはらんだ帝国主義世界体制とを全く混乱していることになる。

その上、「鎖の弱い環」理論は、複雑な経済的、政治的関連を分かりやすい物理的表現でたとえるときに、いつでもおちいる単純化のあやまりを典型的に示しているばかりでなく、事実よりも「理論」から次の「環」を見つけ出すことによって教条主義となり、何よりも事実と状況のもつ思いがけない可能性と創造性を抹殺する。

もし、「心臓部」と「末端部」というならば、今日の帝国主義戦線では、――戦後一時期はアメリカが「心臓部」であったとしても――それぞれ相互の「心臓部」であるとともに、相互の「末端部」でもある。戦後、帝国主義の古典的植民地体制は崩壊し、新植民地体制への転換を余儀なくされたが、今またベトナムからアラブへと民族解放運動の新しい前進は、帝国主義的矛盾の転化を拒否しつつ、「政治的」独立から経済的独立へ、「形式」的解放から完全な解放へと、新しい歴史的局面をひらきつつある。それは否応なしに帝国主義そのものの矛盾を深め、帝国主義の経済的、政治的諸矛盾は先進資本主義諸国の諸「心臓部」へとその救心的な集積をいっそう早めるだろう。先進国革命の客観的条件は成熟しつつあり、世界革命はその輪を縮めつつある。それはますます「調整」機能の充実を要求しながら、反面その破綻を早め、ほころびをますます拡大うる。こうした「調整」と破綻の矛盾的展開は、それに対決して闘う先進国革命のダイナミズムとロシア革命が典型となった革命的イデオロギーのいっそうするどい鍛錬を要求している。

(注)

(1)レーニン「工場委員会モスクワ県議会での報告」(全集第七巻)五六四頁。

(2)レーニン「ロシア共産党(ボ)第七回大会」(全集第二七巻)一二八〜一二九頁。

(3)レーニン「共産主義インターナショナル第三回大会」五一三頁。

(4)レーニン「ロシア共産党(ボ)第七回大会」(全集第二七巻)九四頁。

(5)レーニン「モスクワの労働組合と工場委員会との第四回協議会」(全集第二七巻)四七七頁。

(6)エンゲルス「フランスにおける階級闘争」序文(一八九五年版)(全集第七巻)五三三〜五三四頁。

(7)マルクス「フランスにおける階級闘争」(全集第七巻)九四頁。

(8)上田前掲論文、三六頁。

(9)レーニン「帝国主義と社会主義の分裂」(全集第二二巻)一一九頁。

10)スターリン「レーニン主義の基礎」(国民文庫)三六〜三七頁。

 

 

(以下次号)


新しい革命と新しい党(2)   ―先進国革命論についてのノート―

松江 澄   労働運動研究 第55号 S4951

 

目 次

(二)ヨーロッパ革命と各国共産党

一.フランスとイタリア

二.日本共産党の「道」

三.フランス「五月」とチリ革命

 

一.フランスとイタリア

 マルクス、レーニンの先進国革命についての再検討につづいて、その後のヨーロッパ先進国革命への道を探る上で、各国共産党の追求をあとづけることは、われわれの分析にとって必要な素材である。そこで、あえてコミンテルンの時期をあとまわしにして、まず今日の問題について検討しょう。このことに関して田口富久治は、「これらの諸国の中でとくに注目されるのは、イタリア、フランスそして日本の動向である」として、「いちじるしくナショナルナな個性を持っている」とともに、「相対的に強大な共産党が存在し、それが国政にたいして現実的な影響力を行使し、また行使しはじめている」という共通点があるので、「先進国革命の道が、さぐりあてられるべきであるとすれば、これら三国の労働運動、大衆運動と、それらとの関連においてそれぞれの労働者党の革命戦略を比較、検討してみることがまずもって必要とされよう」(1)という。そうして、三国の労働運動と共産党の革命戦略の比較分析のための項目として、二つの問題をあげている。その一つは、「政治情勢の転換と革命の移行過程の見通し」であり、二つには、「革命戦略の実現のための政治闘争の舞台として何が設定されているかということである」として、「当面の情勢を変えていくための三つの政治闘争の舞台として、国会、自治体、労働組合の統一闘争のレベル」が「作業仮説」としてあげられる。

 たしかに先進国革命をさぐる上でフランス、イタリア、日本の運動を追求することはまったく必要なことである。しかし、田口氏があげている三つのレベルという「作業仮説」は余りにも技術的にすぎるのではあるまいか。むしろ重要なことは、その前提になる「情勢の転換と社会主義への移行過程の戦略」について、ただそれをあとづけるだけでなくその性格を明らかにし、それがその国と社会の――したがってまたその国の歴史的な革命運動の継承と革命を、どのように反映しているかを比較検討することである。

 まずフランスについてはどうか。

 フランス共産党では、一九六八年シャンピニで開いた中央委員会で採択された「フランス共産党の宣言――先進的民主主義のために、社会主義フランスのために」(いわゆる『シャンピニ宣言』)というテーゼを今日の闘いの旗印としており、最近社共の間で協定が結ばれた「共産・社会党――共同の政府綱領」もその具体化のあらわれである。そこで「宣言」の主要点を、最もよく説明している「第一九回党大会報告」をきこう。この場合何より重要なのは、この「宣言」の核心となっている「先進的民主主義」とは何かを明らかにすることである。「報告」によれば、

 「先進的民主主義とは、国民経済に対する大資本の支配を制限するため断固たる措置をとる政権のことである。したがってそれはまた工業の主要部門と大銀行の国有化を意味し、国民に帰属する企業の民主的管理を意味する。・・・・・

 先進的民主主義とは、購買力と雇用、集団的設備と国民教育の分野で、勤労大衆のもつ大きな要求を漸次満足させることに努力する政権のことである。・・・・・

 最後に先進的民主主義とは、個人権力を廃止し、人民の主権を確立し、比例代表制で選出される国民議会に真に監督権をあたえ、国民と学校の宗教からの離脱を復活し、新聞、ラジオ、テレビの民主的規約を制定する政権のことである。・・・

 先進的民主主義はこうした反独占の措置を実現しながらも、まだ人により人の搾取をなくすものでないことはいうまでもない。この民主主義は、独占の力を漸次、系統的に減少させ、労働者階級の権威と国の生活における政治的比重を高め、反動を孤立させ、すべての進歩勢力が結集するのをたすけ、フランス人の大多数がフランスの社会主義への移行に賛成するための最良の受験をつくり出すだろう。」(2)

 「報告」によれば、この「先進的民主主義は、社会主義へ移る一つの形態」であり、「必要な段階」であるとされている。そうして「現代に会っては、この段階と社会主義の段階とのあいだに長い歴史的期間があるとはわれわれは考えていない。民主主義をめざす闘争は、わが党の基本目標である社会主義をめざす闘争の完全な一部である。」(3)と。

 以上で明らかなことは、「先進的民主主義」とはまず何よりも新しい反独占の「政権」(「権力」ではない)であり、その具体化である社共の「共同綱領」が単なる選挙綱領ではないとしても、少なくとも選挙による「政府」をめざしていることは疑う余地がない。したがって「先進的民主主義」は社会主義的民主主義への過渡形態としての「反独占民主主義」であり、その実現形態は選挙による「政府」であるといえよう。ここでは闘いの「共同綱領」は、ある意味で現在の政府の反対綱領であり、それを実現することによって資本主義の制度を変革することに一歩近づくような一連の措置である。それは基本的には、「個人権力の体制を排除し」「フランスにおける民主主義の再建と革新」を中心任務として、そのための制憲議会の選出のためにたたかう「第一五回大会テーゼ」(4)(一九五九年)の延長の上にある。ただ異なっているのは、「第一五回大会テーゼ」では闘いとられた「革新民主主義」の「闘争の一局面となりうる」とされた「国有化」が、ここでは、第一義的に前面に進み出ていることである。ここには仏伊共産党論争からヨーロッパ共産党の声明、さらには「八一カ国声明」への経過と結果が反映しているといっても間違いではないだろう。

 しかし、何れにしてもフランス共産党のテ−ゼを一貫して流れているのは、三〇年代人民戦線の伝統であり、民主主義的統一戦線政府の樹立による「上から」の社会主義への移行形態である。これは次に見る「イタリアの道」とくらべるとき、いっそうきわだった対照をなしている。

 それではイタリアはどうか。

 第一二回大会テーゼ(一九六九年)についてのルイジ・ロンゴ書記長の報告の中で、最も中心的な問題は、「民主主義の社会主義への新しい発展を許すような政府の政策の徹底的変革」である。

 「われわれは社会主義がイタリアの今日の日程にのぼっていることを知っている。それは広範な人民大衆の意識のなかでそうなのだし、社会主義の方向でイタリア社会の変革が行なわれない限り、根本問題を十分に解決することは不可能であるからこそ、そうなのである。しかし同時にわれわれは、グラムシの表現を借りると、独占体と極反動退歩勢力を孤立させ、労働者階級を中心に自己の利害から独占体に対立するようなすべての勢力を団結させる力をもつ新しい権力ブロックがつくられないかぎり、そうした変革ははじまらないことも知っている。この民主的闘争と社会主義的闘争との結びつきは、われわれの政策『社会主義へのイタリアの道』の核心である。」(5)

 そうしてこの「道」は、戦中、戦後を通じて闘いとられた「従来の型のブルジョア民主主義的議会制共和国ではなく、新型の共和国」である現在のイタリア憲法を「出発点と基準とする」闘いであり、したがってそれはまた、戦後挫折した革命の継承と発展の闘いでもある。それでは、「イタリアの道」の中心となっている構造改革の戦略とは何か。

「われわれの構造改革の戦略は一種の『反対計画』である抽象的な統治計画でもなければ、いっしょにすれば資本主義制度を変革することができるようになる一連の措置でもない。また連続的に分裂を起こさせ、制度の全般的危機をひきおこそうという抽象的な企図でもない。

 われわれの戦略は、所有関係と政治体制に変化をひきおこし、支配ブロックを粉砕し、新しい社会グループ全体に新しい政治経験をもたらし、もっと進んだ闘争にもっと有利な条件を獲得強化し、われわれが政治社会勢力の新しいブロックを形成するのを可能にすることをならいとしている。つまりそれは、政治的、社会的な前進の意義をもち、左翼の選択する道が説得的価値をもつために、現在の実行可能な目標を獲得するための総合的な闘争が問題である。必要なのは下部の統一と、他の政治勢力にたいするわれわれの統一政策とのあいだ、あるいは新しい直接民主主義の形態と代議制民主主義の形態とのあいだに、いかなる人為的対立にせよ生まれるのを防ぐことである。」(6)(太字筆者)

 ここで注目すべきことは、現在の情勢(国家独占資本主義)のもとで、「代議制民主主義の深刻な革新のために闘わなければならないと同時に、新しい型の直接民主主義のためにも闘わなければならない」と指摘していることである。したがって「社会主義への前進の道」は「議会的でもあるということを忘れないのは決定的に重要である」(太字筆者)として、「われわれの展望は、国家と社会の内部での漸次的な勝利と変革をもたらし、新権力ブロックを形成する闘争の道である」といっている。それは「上から」の道であるとともに、「下から」の道でもある。

 田口氏は、後にのべる「日本の道」も含めて、先進国革命とは、結論として「民主主義をとおしての社会主義への道にほかならない」というが、「フランスの道」と「イタリアの道」は明らかに同じ「民主主義の道」でも異なっている。それは労働者階級を中心とした反独占統一闘争に依拠しながら、社会主義へ向かって「漸次的な変革」を闘いとることでは共通のようでも、「反対計画」をめざして民主的議会政府を樹立し、「上から」反独占の措置を実現することを通じて社会主義への移行を追求する「道」と、実現可能な経済構造の改革を「下から」闘いとりつつ「上から」の議会革新と結合して社会主義への移行をめざす「道」との相異である。フランスでは民主的な議会政府の樹立を契機に新しい権力ブロックをつくり出そうとするのにくらべて、イタリアでは政府もしくは権力の樹立以前に前もって新しい権力ブロックの形成を準備する闘いを重視する。「宣言・声明」の「反独占民主改革」ということばで包括されようとも、これは二つの「道」であって単純に一つの「道」だと画一化することは適切でない。それは「ディミトロフ=トレーズの道」と「グラムシ=トリアッチの道」のもつ相異でもある。したがってこの近似性と相異性を検討することは、先進国革命論にとって重要な議題である。

(後述)

(注)

(1)田口富久治『先進国革命論』「マルクス主義政治理論の基本問題」(青木書店)二八三〜二八四頁。

(2)フランス共産党第一九回大会中央委員会報告「各国共産党・労働者党綱領集(1)」(大月書店)一〇九頁。

(3)同前一二三頁。

(4)フランス共産党第一五回大会テーゼ「現代革命と反独占闘争」(合同出版)六三〜六六頁。

(5)イタリア共産党第一二回党大会報告「各国共産党・労働者党綱領集(1)」(大月書店)一九七頁。

(6)同前二〇三頁。

 

二.日本共産党の「道」

 

 それでは日本共産党の「道」はどうであろうか。それは何処を通って何処へ行く「道」なのか。私は『労研』一月号で、第一二回大会報告についてのメモを書いたし(「『人民的議会主義』は人民的か」)、その同じ号では遊上氏も書いている(『社会主義を恐れる日本共産党』)。しかし、前回ではふれなかった「民主連合政府」の性格について、フランスやイタリアと比較しながら、その特長を明らかにする必要がある。

 「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について」という報告の中で、上田耕一郎は、「日本における民主連合政府の性格は、社会主義への道をひらくことを目的とする政権ではなく、現憲法のもとで民主主義の実現をめざす政府です」(1)とのべている。不破の大会報告はそれをもっと「分かりやすく」次のようにのべている。

 「民主連合政府綱領についてのわが党の提案が示している諸措置は、資本主義的搾取を廃止する社会主義的措置ではなく、エネルギー産業の国有化を含めて、資本主義のワク内でも可能な民主的改良と改革の諸政策であります。もし日本の革新勢力が、いま歴史的に提起される反独占の諸政策の民主主的性格を見失って『反独占即社会主義』という立場をとったり、社会主義への過渡的措置としてこれを支持することを国民にもとめたりするならば、広範な独占資本の措置に反対する圧倒的多数の国民の民主的エネルギーを結集することができず、現実に資本主義のワク内でも可能な反独占民主主義的な改革の実現を遠ざける結果にしかならないことは明白であります。

 もちろん、民主連合政府のもとで実現される一連の民主的措置、たとえばエネルギー産業の国有化などが、将来日本が社会主義への道を踏み出したときに、それを助ける一定の積極的な要素となりうることは事実です。しかし、それは次の歴史的な段階で日本の国民が社会主義への道を選択したときにおきる結果であって、今日とられる民主的改革の諸措置を社会主義的性格のものとすることではりません。」(2)

 ここで不破が懸命に強調しているのは、民主連合政府が社会主義への過渡的ではないということである。彼は、「反独占民主主義→社会主義」を「反独占即社会主義」にすりかえながら、もし一言でも「社会主義」ということばを使えば、「国民の民主的エネルギーは結集することができない」という。それでは今日の闘いを通じて生まれている労働者と人民の要求である「反独占」をどこへ発展させようというのだろうか。「次の歴史的段階」で国民が投票でもして「社会主義を選択」するまではじっと我慢すべきだというのだろうか。あるいは、ロシア革命をはじめ今日までの社会主義革命は、すべて何時ある日、国民が「社会主義を選択」したから生まれたとでもいうのだろうか。ここには社会主義をめざして闘う労働者階級のヘゲモニーの思想もないし、具体的要求の中からその本質と志向をさぐり当て、引き出し、大衆自身のたたかいを通じてその発展を探求するマルクス主義的な追求の方法は拒否されている。

 その上、民主的改革が以下の社会主的性格のものではないかを「証明」するために、第二次大戦のフランスやイタリアを引き合いに出し、「統一戦線政府のもとで一定の産業や企業の国有化の措置」がとられたが、「その後、統一戦線政府の保守党政府への交代など一連の政治的経過をへて、これらの国有化部門は資本主義的国有化のワク内に現にとどまっている。」(3)といっている。周知のように、戦後フランス、イタリアにおける新しい変革への開始は、戦後樹立された統一選政府のもとで発展したが、残念ながら独占と反動の復活によって押しとどめられ革命は後退した。不破は、ブルジョアジーがかすめとった革命の「残がい」をとりあげて、資本主義のワク内で国有化が存在することを得々と「証明」している。「ミイラ取りがミイラになった」とはこのことか。

 民主連合政府の性格に関して、もう一つ見おとすことのできない点がある。それはこの政府と当面する革命との関係である。

 不破の「報告」によれば、

 「革命の戦略的展望と当面の課題との関連についていえば、わが党は、日本の国民が、資本主義か社会主義かという選択のまえに、まず独立と民主主義の達成という歴史的課題に直面しているという綱領的展望を持っているために、民主連合政府の諸政策と革命の戦略的展望のとの関係を民主主義的性格という共通のレベルでの接近としてとらえることができます。そのために、直接社会主義革命を展望している社会党とちがって、民主連合政府が実行する政策の提案においても、それだけ安定した内容が保障されているといえます。このこともまた、わが党の綱領路線の先駆的な意義のもう一つの証明であります。」(4)

また上田の「報告」によれば、

 「重要なことは、わが党の場合は、民主連合政府と民族民主統一戦線政府、さらに革命の政府との関係を、同じ民主主義的変革の課題のなかでの接近とみるために、政策的にも一貫性と安定性が保証されることです。ここからは力関係からくる考慮を別としても、政策的に性急な国有化や対中間層政策など、極左的政策を生む条件はもともときわめて少ないということができます。」(5)

 同じような文章を長々引用したのは、これほど民主連合政府の「戦略的展望」をはっきる示したものはないからである。日本共産党の綱領路線がどんなに「先駆的な意義」をもっているかはすでに多く批判されているからふれないにしても、ここでは国有化は「極左的」なものとしてしりぞかれ、「民主連合政府」―民族民主政府統一戦線政府―革命政府」の「民主主義」的一貫性と安定性がほこらしげに強調されている。日本共産党のいう「反定・反独占民主主義」がフランスやイタリアのように社会主義への移行形態でないとすれば、それは基本的な性格としてブルジョア民主主義とどこが異なるのであろうか。天皇の公布した憲法のワク内で、しかも社会主義への過渡的性質をもたない「民主主義」は、ブルジョア的「一貫性と安定性」で微動だにすまい。日本共産党の「道」とは、結局「民主主義への日本の道」である。

 こうした日本共産党の「道」に亡霊のようにとりついているのは、外ならぬ「三二テーゼ」であろう。戦前後の「ブルジョア民主主義革命論」の中で「天皇制」を今日の「アメリカ帝国主義」におきかえるだけでよい。一貫した「二段革命論」こそ日本共産党の悪しき歴史的伝統なのだ。もう一言いえば、「民主連合政府綱領」は、宮本の「二段革命論=旧人民戦線論」と上田・不破兄弟の「構革論」との野合であり、「二つの敵」論と議会主義の「雑すい」に外ならない。

(注)

(1)「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について(『前衛』一月号臨時増刊・大会特集)一七三頁。

(2)「日本共産党第一二回大会にたいする中央委員会報告」(前同)五〇―五一頁。

(3)前同五一頁。

(4)前同五一―五二頁。

(5)「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について(前同)一七四頁。

 

三.フランス「五月」とチリ革命

 

今まで見てきたような先進国共産党の革命論にたいして、新しい問題を提起したのが、六七年のフランス「五月」の闘いであり、また七三年秋のチリ反革命であった。この二つの事件は、いろいろな意味で対照的なものであった。フランスの「五月」はたしかにゴルツが指摘するように「その成果は、過去二十年来はじめて革命と社会主義への移行に関する問題が一先進資本主義国において提起されたことであり、しかもそれが、コミンテルン第七回大会以来、各国共産党の政策とイデオロギーを支配してきた図式とは無縁の要求と基準にもとづいて提起されたことである。」(1)これにくらべてチリの反革命は、国際共産主義運動によって高く評価されているチリ共産党を重要な中心の一つとする「人民連合」の輝かしい革命的成果を、アメリカ帝国主義と結託したチリ軍部反動派が暴力で破れん恥な圧殺を強行した事件であった。それは一方では合法的政府にたいする反革命クーデターであり、他方は資本と権力にたいする非合法の「反乱」であった。にもかかわらず、この二つの事件は、世界革命運動に大きな衝撃と教訓を与えたという点では共通である。

まずチリの革命と反革命について見よう。

われわれはまず反革命集団とその黒幕であるアメリカ帝国主義にたいして断固たる抗議をおこなっただけでなく、今後も抗議しつづける必要があるし、また同時に、合法的あるいは非合法的に革命の継続と発展のために闘いつづけているチリの同志たちに、心からの連帯と、できるかぎりの何かをすることによって、その連帯を表明しなければならない。しかしそのことは、チリ革命についての率直な検討と分析を少しも妨げるものでもないし、また妨げるものであってはならない。

チリの革命と反革命を検討するに当たって、共産主義者ならけっしておちいってはならない二つの立場がある。その一つは、政府を奪るのが早すぎたという批判であり、他の一つは、極左勢力が妨害したからだという立場である。この二つの立場は、何れも失敗と敗北を他に帰する無責任さで共通している。ところが日本共産党は、この二つの立場に立っている。チリ反革命にたいする日本共産党の三つの立場の内、民主連合政府は人民連合政府とちがって、議会内多数派によって形成されるから、チリのような懸念はないという主張は、とりもなおさずチリでは政権をとるのが早すぎたということにもなる。もう一つの立場は、「極左的」MIRにたいする非難である。三つめの主張は、日本ではチリのように社会主義をすぐめざしていないから大丈夫だという彼の「有名な」論拠である。

チリ革命については、すでに『労研』一月号で植村邦と佐久間弘が歴史的な経過をあとづけながらくわしくのべられているので、多くつけ加える必要はない。ただ両氏のふれていないことで、私にはむしろ最も重要だと思われる点があるので、そのことについてだけのべておきたい。その一つは、チリ共産党の選択がまず「平和への道」から始まっているということである。チリ共産党のコンバラン書記長は、ソ連共産党弟二〇回大会の報告を引用しつつ、「『平和的な道』に関するテーゼは戦術の定式化というよりも国際共産主義運動の綱領的提起である。」(2)として、

「平和的な道は、単なる選挙の道ではなく、またそうでなければならない必然性もない。なによりもわが国における平和的な道は、選挙をとおしてではなく、その他の方法、行動の形態、時期を利用して一定の瞬間に革命への道をきりひらこうという大衆闘争の道である。」(3)

と規定し、「平和的な道を合法的もしくは合憲的路線と同一視している人々がいるが、それは完全に誤りである。」(4)ともいっている。しかし、マルクス主義の歴史的な経験は、少数派による「強力の道」から多数派形成による「民主主義的=合法的な道」へとその探求をつづけながら、今まさにそのことの成否が改めて問われようとしているのだ。そうしていわゆる「民主主義的道」は「合憲的、議会主義的な道」として、転ぷくをねらう反動派を「合法的権力にたいする反徒」(マルクス)にするという意味で平和的な移行の可能性をもっているが、それを固定化することはまちがいだと主張されてきた。つまりこの立場でも選択は多数派形成のための『民主主義的な道』から始まって「平和的」か否かは第二次的な追求の課題であった。ところがコルバラン書記長の主張はまず「平和への道」から始まって次に合憲的、合法的か否かの問題が提起されている。ここでは選択が逆立ちしているのではあるまいか。そのためかどうかは別としても、「党は軍隊が帝国主義と支配階級の徒順なたんなる附属物だとは考えていないし、また人民の武装した庇護者であるとも考えていない。」(5)と、政府樹立以前から軍にたいする中間的評価が目立っている。チリの歴史的状況とチリ軍部のおかれている特殊な条件をわれわれはくわしく知るよしもないが、軍隊としての基本的な階級的性格は一貫しているのではあるまいか。

もう一つの点は、「合憲的」な政府の限界についてである。佐久間氏も指摘するように、人民連合の中軸である社共の間に戦略およびMIRに関する態度などで重大な政治的不統一があり、政策をめぐって両党書記長が往復書簡で論争したこともある(政府樹立後はじめての総選挙の1ヶ月前)。この中でゴルバラン書記長は、反動が政府の責任にしようとしている経済的困難をきり抜けるために、「農業生産を実質的に増大させ」、「工業生産および社会的部門に属する企業の収益性をふやす」ことをとくに強調し、「これらの分野で成功をおさめることができるならば、われわれが力関係を根本的にあらため、権力の全面的な獲得をめざして前進することのできる基本的な道がひらける。」(6)と断言している。しかし、当時、政府は合法的な手続きで手に入れたものの、議会では少数派であり、ブルジョアジーと反動派の抵抗で国有化は思うように進展せず、革命は停滞していた。こうした時期に、大資本が経済を支配し、基本的にはブルジョア権力が維持されている状態のもとでの「権力の全面的な獲得」に接近することになるのか、私にはよく分からない。その答えとして考えられるのは唯一つ、「もっとも革命的なことは、人民政府の成功のために闘うことである。」(一九七〇年十一月コンバラン書記長)ということでしかるまい。しかし、もしそうだとすれば――事実そうであった――これは重要な問題を含んでいるように思われる。それは、「人民政府」がまだ人民の権力ではなく、ブルジョア国家のワク内であるにもかかわらず、この政府の維持が革命的変革の尺度となり、政府と人民との関係が、「良い政策」の実施をめぐる支持と被支持の関係にとどまりがちになるからである。それでは労働者階級を中心とした人民の闘いが、合憲的「人民政府」をテコにして権力への迫撃を展開しながら「権力の前面的な獲得をめざして前進する」ことが困難になるのではあるまいか。変革の尺度はどこまでも権力獲得に接近する「下から」の闘いにある。一般的には選挙による民主的政府の道――「上から」の道は、政府が樹立されるとしばしば攻撃よりも守勢に、前進よりも現状維持にかたむきやすく、結果として「権力」の問題を事実上「政府」の問題に矮小化するという宿命的弱点と限界をもっており、それをどう超えるかということこそ真の意味で革命の問題なのではあるまいか。

それと対照的な意味でフランスの「五月」は、先進国革命の一断面として重要な教訓を与えている。「五月」闘争は、ある種の政治的危機に近いものをつくり出したが、それはけっして革命的危機でもなかったし、またしたがって革命でもなかった。革命とは何よりも労働者階級をはじめとした人民大衆が、何がおき、何がつくり出されるかをあらかじめ知っているだけでなく、それを準備しなければならないからである。それは一週間や一ヶ月でかたがつくものではなくて、はるかに長期にわたるものであり、それはある種のカケではなくて、充分計算されたものでなければならない。しかし、「五月」の事実はそうではなかった。だからといっておくればせに行動に参加しながら、内実は「冒険主義者」の「極左」的行動にばかり気をつかい、この「反乱」を鎮静させるために努力し、最後にはCGTの賃金闘争に集約しようとしたフランス共産党にくみするわけにはいかない。いやそれどころか、フランス共産党こそこの闘いを経済闘争に終われせるか、あるいはドゴール体制を危機に追いこむことができるかの選択権をもっていたにもかかわらず、指導権が「極左分子」にあるという理由だけで、それを放棄したのだと非難されても仕方があるまい。

「五月」の記事の中で、こうした情況をよく象徴している一つの挿話がある。「五月一三日の夜、パリの街頭を大衆的に行進したあと、講堂の大聴衆の面前でグニエル・コーンペンディットが共産主義学生連盟の書記長TM・カタヲと対決した」時の状況である。問題は、その日のデモの後で共産党とCGTが、労働者が学生の討論に加わることを妨げて解散を命じたことにあった。

「カタヲはせせら笑った。『CGT,CFDT,UNEFその他主催団体間で結ばれた協定は、予定地点で解散することを決めていた。合同主催委はそれ以上の行動をみとめていなかった。』

『正直な答えだ』とコーンペンディットは答えた。『つまり緒組織は、まさか百万人も街頭に出るとはおもわなかったわけだ。だが生活は組織より大きい。百万人もの人間があれば、たいていどんなことでもできる。君は委員会があれ以上の行動をみとめなかったのだといった。革命の日には、同志、君はやはり、『主催団体が認めていないから、止めろというに違いない。』

大かっさいが起こった。」(7)

ここで重要なことは、コーンペンディットの思想の問題ではない。そうではなくて、ここでは事実が、「生活は組織より大きい」ということを証明しており、いつも指導される者が、今度は指導するのだということである。この闘いの過程で、下からつくり出された各種の「決定集会」と管理のための「委員会」は僅かの期間にせよ、ある種の創意にみちたヘゲモニーの形態をつくり出した。この「五月」は、けっしてあらかじめ準備されたものでもなく、また当初から労働者がイニシャチーブをもって闘いはじめたわけでもない。それは学生が工場に行き、一つの職場から次の職場へと労働者のサボとストが次第に大きくなり、最後に誰しも予想できなかったほど大きく、ひろく、深く発展した。それは誰かが――あるいは「極左」主義者が――あらかじめ意図したからではなかった。それはまったく自然発生的に発生し連鎖的に発展し、巨大なエネルギーを瞬時に爆発させた。それは意図的でなく、まったく自然発生的であったからこそ、あのように大きなウネリに発展したが、また同時に、自然発生的であったからこそ「革命」にはならなかったのだ。それはいつまた起こるか分からない先進国「心臓部」のけいれんの最初の徴候であり、今後どこで起きるかも知れない「反乱」の前ぶれでもある。しかし、それは自然発生的であるかぎり、またどこかの「五月」で終わるだろう。

先進国の革命にとって、何よりも重要なことは、自然発生的な「反乱」がいつでも、革命的な目的意識性と結合できる準備を誰がどのようにととのえるのかということである。「反乱」的危機と革命的危機、瞬時に爆発する下からのエネルギーと長朝にわたる革命的過程をどう結合し、組織するかということである。革命は――ロシア革命もそうであるように――あらかじめ計算されたボタンを押すようにしてはじまるものではない。しかし、一定の危機を革命的危機へ、革命的危機を権力の獲得へ、さらにその維持へと発展させ組織するためには、あらかじめその力が忍耐づよく蓄えられ、そのプログラムが綿密に計算されていなければならない。

現代先進国革命の最も重要なカナメは、この自然発生性と目的意識性の正確な結合であり、その結合の形態としての党の問題である。それはかつてのように「自然発生的」な大衆を指導する「目的意識的」な党でなければ、大衆の代わりに「革命」をおこなう「大衆的前衛党」でもない。労働者階級と人民大衆自身の革命的な表現としての党である。それはまず思想があるのではなく、闘いを通じて大衆の革命的機能となる行動の中で、その思想が問われる党である。その意味で、現代先進国革命の問題とは、また現代革命の党の問題でもある。(以下次号)

(注)

(1)アンドレ・ゴルツ「五月運動の限界と潜在力」(V・タン・モデルヌ特集・筑摩書房)五九頁。

(2)ルイス・コルバラン「平和的な道と強力の選択」一九七一年(国民文庫「チリ人民政府樹立への道」)三六頁。

(3)同前二五頁。

(4)ルイス・コルバラン「平和的な道について」一九七一年(同前)一四頁。

(5)ルイス・コルバラン「権力の獲得をめざす人民連合」一九六九年(同前)一一八頁。

(6)ルイス・コルバラン「社会党書記長への手紙」(世界政治資料第四〇三)三四頁。

(7)(「ソリダリティ・パンフレット」三〇号)武藤一羊「フランス五月の教訓」一二九―一三〇頁。


新しい革命と新しい党(3)   ―先進国革命論についてのノート―

松江 澄   労働運動研究 第56号 S4961

 

(三)人民戦線戦術と構造改革の戦略

一.人民戦術とグラムシ「陣地戦術」

 私は「ヨーロッパ革命と各国共産党」の中で、フランスとイタリアの「道」は「社会主義への民主主義の道」とはいえ、二つの異なった道であるといい、それは、「ディミトルフ=トレーズの道」と「グラムシ=トリアッチの道」の相違だとのべた。この相違をつきとめるためには、ロシア革命、三〇年代人民戦線とグラムシ「陣地戦」について、その相好の関係を明らかにすることが必要であるように思われる。何故ならば、今日でも、いわゆる構造改革の戦略を人民戦線戦術の発展がもたらしたものと見なしたり、また中には「陣地戦」をロシア革命の直接的な発展と捕らえる向きさえあるからである。

 不破哲三は、グラムシの「陣地戦」論について次のように主張している。

 「第一に、グラムシ」は、『陣地戦論』の概念を、革命的情勢に先だって革命を準備する闘争という意味で一貫して使用しており、しかもその準備の内容は、労働者階級と人民の多数者を獲得し、革命勢力を政治的、組織的に結集することにはっきりとむけられていた。

 グラムシが、レーニンの『統一戦線』戦術を、西ヨーロッパにおける『陣地戦論』の戦術として評価したのも、それがブルジョア的、社会民主主義的『ヘゲモニー装置』の指導力を弱め、労働者階級の多数を革命のがわに移行させることを志向していたからである。

 第二に、『陣地戦』を革命を準備する形態とみなしたグラムシは革命運動のすべてを『陣地戦』に解消して、権力獲得のための革命的攻撃(運動戦)も必要を否定するような立場は一歩もとらなかった。

・・・・・・情勢の推移におうじて、『運動戦』から『陣地戦』への、あるいはその逆の移行について論じている。(1)」

 不破によれば、「陣地戦」は革命を準備する闘争であって革命論ではなく、労働者階級の多数を獲得するという点では統一戦線戦術と異ならず、したがって「陣地戦」は「運動戦」とともに、ロシア革命がそうであったように、防御と攻撃の戦術にすぎないことになる。

 たしかにグラムシは、「イリイッチ(レーニン)が(一九)一七年に東方に適用して勝利した機動戦から西方でただ一つ可能であった陣地戦への転換が必要であったことを理解していたように見える」が、それは「『統一戦線』の定式が意味したことだろうと思われる」といっている。しかしグラムシは、この問題がすぐれて「国民的」なものであることを指摘しつつ、周知のように、「東方では国家がすべてであり、市民社会は初生的で、ゼラチン状であった。西方では国家と市民社会の間に適切な関係があり、国家が揺らぐとすぐに、市民社会の堅固な構造が姿を表わした。国家は前進塹壕にすぎず、その背後には要塞と砲台の堅固な連鎖があった。これは国家により大小があったが、まさにこのことが、国民的性格の正確な認識を必要としたのである。(2)」と述べている。したがってこのことに関してグラムシとレーニンを無条件に同一視することは正しくない。グラムシについては、イタリア共産党が指摘するように、西欧の革命にたいするかれらの考え方やそれがロシア革命とは本質的に異質なものであるとするかれの理解の仕方と密接に関連づけられないかぎり、グラムシの功績は完全に把握されたとはいえない(3)」ものである。また「陣地戦」についていえば、グルッピがいうように、「運動戦」の中に攻撃と防禦がるように「陣地戦」の中にも防禦と攻撃がある(4)。

 このことに関してグラムシ自身も次のようにのべている。

  「以前機動戦をとっていたように、その後陣地をとっている軍事技術者でさえ、前者の型が科学から排除されたと考えるべきだとは、もちろん主張しない。そうではなく、工業的にも文化的にも最も進んだ国家間の戦争では、機動戦の型は、戦略的機能よりもむしろ戦術的機能にひき下げられて考えるべきであり、以前に、機動戦に対比して包囲戦が置かれ手いたのと同じ位置において考えるべきだと、主張している。

 同じような引き下げは、少なくとも『市民社会』がきわめて複雑で、直接の経済的要素の破局的な『侵入』(恐慌、不況等々)に抵抗する構造となっている最も進んだ国家にかんするかぎり、政治牛術や政治の科学でおこなわれなければならない。市民社会の上部構造は、現代戦における塹壕体系のようなものである。法兵隊の激しい砲撃が、敵の防衛体系全体を破壊しつくしたようにみえたが、実はその外面部を破壊したにすぎず、攻撃と前進の瞬間にあたり、攻撃部隊はまだ有力な防衛線にぶつかる、というのと同じように、深刻な経済恐慌中にも同様のことが生ずる(5)。」

 さらに、グラムシは、「現代においては、一九一七年の三月から一九二一年三月まで政治的運動戦がおこなわれ、これに陣地戦がつづいている。」ということによって、「新経済政策」以降、世界的な包囲の中での後進的ロシア社会の社会主義的改造を「陣地戦」と想定している。

 つまりグラムシは「陣地戦」を、もちろん革命的ほう起を準備する闘いとしてだけでなく、また権力奪取の戦術としてだけでもなく、権力獲得後残った敵をせん滅して社会主義革命を達成する全過程の問題としても提起している。そうして得にレーニンがあらかじめ指摘したように、「創めることの困難な」発達した資本主義国の、社会経済構造の型(タイプ)に対応した革命論の型(タイプ)の問題として語っている。それはまた一八五〇年以降マルクス・エンゲレスが探求しはじめたものでもあった。((一)の三)したがって「肝要なことは、陣地戦における防衛体系に照応する市民社会の諸要素とは何であるかを『深く』研究することである。」そうしてここに、レーニンが「理論的」には深めながらも、実際的な探求の面で限界があった理由がある。それは「時間がなかった」ばかりではなく、市民社会の諸要素の研究は、その中で闘うその国の党によってこそ最も正確に分析することができるからである。

 それでは統一戦線戦術はどのようにして成立し、発展させられ、どういう状況のもとで何を目的として追求されたかのか。

 コミンテルン第三回大会では、レーニンの指導のもとに統一戦線戦術の目的と意義を規定し、また労働者階級の行動の統一を達成する方針を決定した。「統一戦線戦術の目的と趣旨は、資本に反対する闘争を共同で遂行しょうという提案を、第二インタナショナルや第二半インタナショナルの指導者にさえ繰りかえし申し入れることをためらわずに、そういう闘争にますます広範な労働者大衆を引きいれることにある」と、レーニンは書いた(6)。それは資本にたいする「共同の防衛戦」であった。レーニンはそのためにくりかえし小ブルジョア急進主義、セクト主義と闘ったが、それは、「共産主義における『左翼』小児病」によってよく知られているところである。結局レーニン的なプロレタリア統一戦線戦術の本質はどこにあったのか。それは「緊急な、大衆にとって身近な実践的問題のための闘争の過程で労働者の行動の統一をつくりだし、改良主義者の影響下にある者をふくめて、労働者階級の種種さまざまな部隊を運動に引き入れ、この闘争の過程でプロレタリアートを革命的精神で教育し、彼らに根本的な任務―ブルジョアジ制度の打倒、プロレタリアートの独裁の樹立、および社会主義の建設―を実現するための縦鼻をさせることにあった。(7)」

 この戦術は、第四回大会ではさらに発展させられ、「労働者政府」を設立する可能性の問題として検討され、また決定した。インタナショナルは、「このスローガンを、ブルジョア権力とたたかい、最後に葉それを打倒するための、経済および政治の分野における全労働者の統一戦線、すべての労働者党の連合とみなした。」しかし当時の情勢と力関係のもとでは宣伝スローガンの域を出ず、一般的には、統一戦線戦術の追求とは別に、権力問題としては「ソビエト政府」の目標が併行的にとられていた。

 しかし、一九三〇年代に入り、二九年世界恐慌が世界資本主義にもたらした深刻な打撃は全般的危機をきわだって激化させ、帝国主義的反動の一層の強化と攻撃、民主主義の抹殺をねらうファシズムの発展は共産主義インタナショナルに新しい戦術の採用を要求した。そのため必要であったのは、レーニンの指導と教訓を歪曲して、社会民主主義を主要打撃の対象とするスターリンの「社会ファシズム論」を克服し、戦術を転換することであった。それはまずファシズムの攻撃でさし迫ったフランス共産党によって着手された。人民戦線結成のための綱領は一九三四年十月二十四日ナントにおける集会で、モーリス・トレーズによって発表された。フランス共産党のこの決定は、コミンテルンの一部の活動家たちの見解の発展を先まわったものであり、とくにスターリンが承認をしぶったことは今日すでにあきらかにされている(8)。

 コミンテルン第七回大会は周知のようにディミトルフ報告を承認して、プロレタリアートの指導のもとで広範な人民層を民主主義防衛のために動員する反ファッシズム人民戦線への結集をうったえたが、これは明らかに統一戦線戦術の新たな発展であった。とくにその中で主張されている「統一戦線政府」は、「プロレタリア革命への移行あるいは接近の形態」(レーニン)として、「おそらく統一戦線政府は、一連の国でもっとも重要な移行形態の一つとなるだろう」としてきされた。これは、直ちにプロレタリアートの独裁形態ではないが、だからといって単にブルジョア民主主義の政府でもない。そこには、すでに先進国における民主主義闘争と社会主義闘争との新しい関係についての積極的な探求の萌芽が含まれていた。

 この闘いは、「後進的」なスペインのように、民主主義の防衛と確立が直接その国の社会経済構造の変革をうながさざるを得ない国にあっては、闘いの鉄火の中で新しい民主主義革命へと発展した。民主主義の防衛は民主主義をはばむ極反動派への革命的攻撃となり、外国の干渉から祖国を守る闘いは同時に古い支配者を打倒する闘いとなり、戦争は革命であった。こうしてスペイン人民戦線政府は革命の政府に転化し、新しい人民権力=スペイン人民共和国が樹立された。しかし「先進的」なフランスにおいては、単にブルームの優柔不断のためばかりでなく、政府樹立後一年にして経済的困難とスペイン不干渉政策によって瓦解した。その「歴史的限界」はたしかにマグリが指摘するように、「階級闘争の防衛段階から攻撃段階への移行に十分成功的にとりくむことをさまたげた限界、きわめて図式的にいえば、民主主義段階と社会主義段階との、中間諸目標と革命的飛躍との区別がなお不確定であったという点に集約できると思われる限界であった。(9)」それは組織的にはプロレタリア統一戦線と反ファシズム人民戦線との関係についての不明確さでもあったといえよう。しかしそこにはもう一つ、そうしてもっと客間的な限界がったのではあるまいか。

 第七回大会は、ファシズムを「金融資本のもっとも反動的、もっとも排外主義的、もっとも帝国主義的な分子の公然たるテロ独裁(10)」と規定した。それはファシズムの本質的な一面をするどく指摘しながら、なおファシズムの本質を全面的に分析する点ではある種の限界をもっていた。それはファシズムが発生し、発展し、支配的な力をもつ過程で見のがすことのできない大衆運動としての性格、とくにその反動的、前近代的な性格であり、またその小ブルジョア的、熱狂的な性格である。そうしてこれは単に過程だけの問題ではなかった。それは資本の一定の反動部分によって予防反革命として激励、援助されたばかりでなく、金融資本の支配を維持するための道具に転化したが、この大衆的な運動が経済恐慌の重圧とプロレタリア革命への接近に恐怖し動揺した小ブルジョアの反動的な側面であることを抜きにしてはとらえることができないものであった。それは金融資本の直裁な独裁形態であると単純化するには余りにも多くの複雑な社会的諸要素を内包していた。

 もし、ファシズムが文字どおり金融資本のテロ独裁であったとすればファシズムの打倒はそのまま必然的に防衛から攻撃に転ずる人民の闘いで金融資本の打倒へと向かわなければならなかったであろう。しかし歴史はそうではなかったことを証明した。結局反ファシズム人民戦線は、攻撃よりも防衛に、大資本にたいする闘いであるよりもファシスト反動に、一国の変革よりも国際的な任務に(社会主義ソ連にたいするファシズムの攻撃を食い止める闘い)その最も重要な集中が向けられた。そうしてそれは決して「革命的」見地から批難されるべきものではなく、その反対に最も高く評価されるべきものであった。何故ならば、世界の社会的進歩は、まずファシズムの打倒なしにはあり得なかったからである。反ファシズム闘争が革命闘争に、人民戦線政府が革命政府に発展転化できなかったのは、マグリが「図式的」にいうようにではなく、正に文字どおり歴史のもつ限界であった。

 それはトリアッティが指摘するように、理論的には、「新しい型の民主主義という概念」の誕生を告げ、「もはやたんに戦術であるだけでなく戦略的なもの」ともなり、「レーニンの予見できなかった新しい情勢に、レーニンの展開し論述した革命的政策の原則が、広い視野と大胆な企画、みとおしをもって適用された(11)」としても、それが「防衛段階」から攻撃段階」へ移るためには単に一国の客観的条件からではなく、ひきつづいておこった世界的な構造の変化と、特別に創造された組織戦術、闘いによって豊かな経験と大衆的力量をもった党の目的意識的な探求を必要とした。この新しい戦略が、ただ「理論」としてだけでなく、「現実」のものとなるためには第二次大戦も戦中の闘いをまたなければならなかった。

 結局統一戦線戦術はあるいは人民戦線戦術は、いくつかの先進的な諸国だけを対象としてではなく、全世界の共産主義者に要請された基本的なあるいは緊急な歴史的な任務であり、労働者の生活あるいは平和と民主主義を共同防衛するための多数者獲得の戦術であった。それは発達した資本主義国では新たな戦略の萌芽を含んでいたとしても、どこまでも一定の情勢に対応した国際的な戦術であり、異なる社会経済の構造に対応する国民的な革命論としての「陣地戦」とは本来別なものであった。(この点で、「統一戦線」を革命的危機の相対的緩和という「国際的状況変化の分析」にあたるものだとするピオットの理解には賛成しがたい。(12))したがってこの両者を単純な発展関係とみたり、またあれか、これかと二者択一的にとらえることは適当でないばかりか、まちがってさえいる。それはそれぞれの歴史的、実践的な追求の中でのみ豊かな相互関係をもつことになるだろう。イタリアの闘いはその一つである。

(1)不破哲三「現代修正主義とグラムシの理論」マルク主義と現代修正主義(大月書店)一五四〜一五六頁

(2)グラムシ「政治闘争と軍事闘争」(「ヘゲモニーと党」現代の理論社)九五頁

 

(3)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)四九頁

(4)グルッピ「マルクス主義国家論」(下)(現代の理論社)二〇一頁

(5)グラムシ「政治闘争と軍事闘争」(「ヘゲモニーと党」現代の理論社)九三頁

(6)マルクス・レーニン研究所(ソ連)(上)「コミンテルンの歴史」(大月書店)一二六頁

(7)マルクス・レーニン研究所(ソ連)(上)「コミンテルンの歴史」(大月書店)一二六〜一二七頁

(8)レイプソン・シニーリヤ「現代革命の理論」(合同出版社)

(9)マグリ「人民戦線の経験の価値と限界」(「先進国革命論」現代の理論社)六頁

(10)ディミトルフ「反ファシズム人民戦線」(国民文庫)一四頁

(11)トリアッティ「共産主義インタナショナルの歴史にかんするいくつかの問題」(「コミンテルン史論」青木文庫)一五八〜一六〇頁

(12)ピオット「グラムシ野政治思想」(河出書房新社)一五五頁

 

 

二、イタリアの構造改革闘争

 

イタリア共産党の今日の闘いは、直接的には少なくとも四〇年代半ファシズム国民解放闘争からひきつがれている。当時の反ファシズム統一戦線は右派と左派に分かれていたが、イタリア共産党はその統一戦線組織である「国民解放委員会」を同数の反ファシズム政党代表で構成することによって全体の統一を保ちつつ、実際的には大衆と結合した各種戦線の代表を参加させることによってこれを単なる政党連合からさまざまな政治的社会的勢力の統一体に発展させた。「すなわち国民解放委員会は直接民主主義の組織にならなければならなかった。(1)」また党は単に「ファシズム以前の民主主義の再建をめざして闘ったのではなく、ファシズムの社会的原因(独占、大地主)を除去できる『新しい民主主義』、独占と大地主を打倒し、共産主義者にとっては当然、社会主義への方向へ向かってみ民主主義がたえず発展していける道筋を切り開くことのできる改革をつうじて、社会的、経済的基盤を根本的に変革した社会を建設して、労働者を徐々に国家の指導部へ参加させていくことのできる、そうした『民主主義』をめざしてたたかっていた。(2)」このような闘いを内容とする解放闘争によってはじめてイタリアの労働者階級は主体的にイタリアの国民的革命的階級として登場し、その結果が戦後の共和国、憲法、民主主義をつくり出したのであった。それは反ファシズム人民戦線の発展的な追求であるとともに、すでに早くグラムシの理論にもとづいた新しい変革の闘いでもあった。

「労働者階級にとっての課題は、したがって、ロシアの場合のように、正面攻撃一本槍ではなく、ブルジョアジーの権力がよって立つ、広範な肢体全体を消耗させる作戦をつうじて、ブルジョアジー打倒のたたかいをおこなうことである。

この作戦はブルジョアジーの同盟体制を打破して、社会的にブルジョアジーに従属している同盟者をブルジョアジーから奪い、労働者階級は支配権を握る勢力ブロックを多数派とする作戦である。(3)」

こうした闘いが「社会主義へのイタリアの道」として定式化されたのが第八回大会(一九五六年)で採択された「綱領的宣言」であり、「第八回大会テーゼ」であった。

そこでわれわれは、イタリアにおけるその後の諸闘争の特長を検討する前に、「イタリアの道」を裏づけるその理論的な根拠をもっと明らかにする必要がある。それを最もよく表しているのはイタリア共産党の次の主張である。

「社会主義へ発展する過程は斬進性の性格をもつという、共産主義者の考え方に固有の概念である。ここでいう斬進性とは、そのような発展は現実の経済的、社会的、政治的均衡がつぎつぎに破壊され(国家権力の内部そのものに存在するものが、その階級的性格を変えるまで)新しい均衡が確立されながら段階的におこなわれるであろうということを意味している。」

といいつつ、トリアッティを引用して次のようにのべている。

「『われわれは、段階的発展の概念を導入しており、そうした発展にあっては、正確にいつ、質的変化が生じたかを指摘することは相当に困難である』(トリアッティ)、この『いつ』が、階級闘争の発展と結果、および社会主義的解決のために奮闘する諸々の階級闘争のなかで一定の時点で獲得する優位性に関連した諸要因のきわめて複雑な集積に依存していることは疑う余地もないことである。(4)」

ここで重複をいとわず引用する必要があるのは、グルッピが「機動戦と陣地戦のグラムシ的な区別――彼はこのことを知らなかった――にちかづいており、ここに『社会主義へのイタリアの道』の理論の萌芽を摘出することができる」といっているエウジエニオ・クリェル(「進歩的民主主義を目指す共産主義者の闘争」一九四五年)の次の指摘である。

 「経験によれば、社会的進歩の重要な諸段階は、ある国では深刻な断絶を通して現れるが、またほかの国では、時間に希薄な、ときおり人に気づかれず、正確には限定されえない断絶あるいは質的変化を通して現われる(フランスやその他の国々におけるブルジョア革命、ローマ帝国における奴隷制革命)ものである以上、つねにソ連で起こった断絶の形態を参照することは歴史的に誤った基準である。・・・・・断絶がわれわれにとっていっそう有利な条件で、したがって断絶が労働者階級および全国民にとってできるかぎり犠牲の少ない仕方で起るように闘うことである。(5)」

こうした一連の論拠は、グラムシ、トリアッティ、クリェルを通じて一貫したものであり、今日「社会主義へのイタリアの道」を際立たせている特有の理論的根拠である。それはグルッピの指摘をまつまでもなく、急激な断絶=運動戦、斬進的で緩慢な断絶(段階的発展)=陣地戦という把握であり、その前提となるのはイタリアの国家、社会の現状分析とその根拠ともいうべきグラムシ国家論である。それは、国家を一連の武装装置だけに限定せず、発達した国における政治社会と市民社会の分節化と相互関係を区別と統一の視点からとらえ、構造(土台)と上部構造の弁証法的な関係を、一定のヘゲモニーによってひきいられる「歴史的ブロック」と規定することから出発いる。重要なことは、それが一般的な理論であるばかりでなく、特殊イタリアの具体的歴史的事実の分析から生まれているという点である。それはレーニンがその基礎を確立したマルクス主義国家・革命論の事実にもとづいた発展的修正であるとともに、マルクス・エンゲルスの「市民社会」論、「国民的革命」論の発展的追求でもあるということである。

イタリア共産党のこうした論拠は、まず「理論」があって次いで「闘争」があるというものでもない。それは反ファシズム闘争と国民解放戦線の血みどろな闘いを通しての認識であり定式化であった。とくに日本と比べてイタリアにおける今日の闘いの特長――「社会主義へのイタリアの道」を可能にさせる現実的条件――は次の諸点にあると思われる。

その第一は、今日の闘いのすべては四〇年代からはじまる一貫した実践によって裏付けられているということである。「直接民主主義」あるいは「労働者による生産管理」ということも、決して単なる概念としてでなく、みずからの死と国家の運命をかけた反ファッシズムの闘いの事実から生まれたものであり、ファシストと結んだ資本への抵抗闘争の中からつくり出されたものであることを念頭におかないわけにはゆかない。

その第二は、こうした闘いの決実としての共和国憲法である。それは「労働に基礎を置く民主的共和国」(第一条(6))として、「国の政治的、経済的および社会的組織へのすべての労働者の実効的参加を妨げる経済的および社会的な障害をのぞくこと」をその「任務」とし(第三条)、「最も広い行政的分権を行い、その立法の原理と方法とを自治と分権の要請に適合させる」(第五条)ことを「基本原理」としている。それはまた特定の独占企業を「国、公共団体または労働者もしくは利用権者の団体に、原始的に保留し、または公用徴収により、補償の下に、これを譲り渡すことができ」(第四三条)、「法律の定める態様および限界において、労働者が企業の管理に協力する権利を承認」(第四六条)している。

もちろん「共和国憲法」は決して社会主義的なものではないが、また従来のブルジョア議会制でもない。

「憲法と社会主義のあいだには質的な飛躍がある」が、「この飛躍が憲法に逆って準備されるのではなく、憲法のなかで、憲法によって準備することができるという事実に、歴史的な、根本的に新しい点がある。(7)」それは闘いの過程によって刻印されたものである。しかし、こうした憲法の実施に反動や大ブルジョアジーが熱心であるはずがない。例えば、「州」は日本以上に中央集権的な色の濃い市町村自治体とは異なって、「憲法の定める原理にしたがい、固有の権力と機能とを有する自治体」(第一一五条)として規定され、「財政上の自治権を有する」(第一一九条)ものとされている。しかし、全国で一九州設定されながら、つい先年まで条件つきにせよ実施されていたのは僅か五州で、残りの一四州は「政府監督官」によって中央集権的な州行政が行なわれていた。(七〇年六月の選挙で実施された。)こうした条件の情況のもとで憲法の完全実施を要求して闘うことは、日本のようにただ反動化への歯止めであるばかりでなく、進んだ新しい変革への端緒を合法的に準備する上で積極的な役割を果たすことになる。

第三に、労働者階級と労働組合による国民的な闘いの発展である。それは一九五〇年、労働総同盟による「労働計画」の提案から始まった。

最近では、六七年の三総同盟によるゼネストを出発点とする年金闘争、六八年から六九年へかけての「暑い秋」の中で闘われた住宅闘争、およびひきつづく一連の経済政策をめぐる闘いなど、労働者の生活改善と経済構造の革新とを結合し、政治生活への労働者の参加をめざす統一闘争として一貫してとりくまれてきた。それは日本における「国民春闘」と同日に論ぜられるものではない。

 こうした特長をもつイタリアの構造改革の闘争がめざしている目標は、南部における土地改革と、すでに全産業の三〇%を占めている公共部門の拡大による国有化の民主主義的な前進におかれている。この闘いでとくに注目すべき点の一つは南部問題である。イタリアにおける北部と南部の相違は異なるほど大きいとはかつて安保闘争で来日したウニタの記者にきいたことであるが、事実われわれの想像を超えたものがある。したがってイタリアの構造改革の戦略は「リソルジメント」以来の国民統一、進んだ北部とおくれた南部の経済的社会的な統合というイタリアに特有な条件を捨象しては考えられないということである。それは一般的な戦略であるとともに特殊イタリア的な戦略でもある。もう一つの注目すべき問題はカトリックとの協力と連合であり、これもわれわれの経験を超えている。イタリア社会におけるカトリックの影響と力――そうしておそらくヨーロッパ社会におけるキリスト教の影響と力――を無視することは、おそらく革命を放棄することにさえなるだろう。反ファシズム闘争からひきつづいたカトリックとの連合と協力は新しい「権力ブロック」を形成する上で最も重要な――見方によれば社共協定以上に重要な――カナメとなるものであろう。それは、人民戦線政府が革命政府に発展した経験をもつスペインでも変わりはない。

スペイン共産党のカリリヨ書記長は、「人民政府」の敗北の教訓として、「ファシストのほう起にたいして、かれらに欠けていた大衆的基盤をあたえたのは教会であった」と、次のようにのべている。

「おそらくわれわれ自身も、教会の立場が、大衆をつかんでいるという意味から――して兵士の熱狂的信念をつかんでいるという意味から、反乱軍にとってどれほど意義をもっていたかということを当時ははっきりと理解していなかったのである。教会の立場は、われわれの事業の人民的性格と、人民全体が共和国の側についているという考えとを混同させる傾向をうながしたのである。われわれに対立して孤立しているのは、軍隊の幹部と、外国の干渉によって支持された週数の特権階級だという考えであった。なるほどわれわれの事業は人民の事業であった。けれども、この人民の少なくない部分が、そのようにはこのことを理解していなかったのである。・・・・・・当時、進歩勢力の勝利を挫折させたのは、革命的大衆とカトリック大衆およびカトリック制度の対立であった。(8)」

スペインでは今日、カトリックとの同盟――それは同時に広範な農民との同盟を意味している――は進歩的ブロックの重要な要因となっている。そうしてカリリヨは、「このような理由だけではなく、あらゆる政治情勢からみても、また最近の社会的、経済的構造の発展から見ても、『人民戦線』の復活という思想は今日では時代錯誤となるであろう」と指摘し、新しい「政治形態」は、「『人民戦線』の経験を考慮し、その経験を学びながらも、それとはちがったものとなるであろう。(9)」といっている。

結局、イタリアにおける構造改革闘争――スペインもそれを重要な教訓としているように思われる――とは決して単なる「理論」ではなく、長い歴史的闘争の過程の総体であり、したがって今後ひきつづく将来への闘いの展望でもある。そこには南部問題、カトリック問題等を生々しく含む「理論」がある。構造改革の戦略をもっと実践的に追求している国が何れも国内に工業的に進んだ部分と非常におくれた農民的な部分をもっているという事実は、ただそれだけの理由でこの戦略に一定の地域的な限界を与えるものとはならないであろう。それ以上に重要なことは、グラムシによって発展させられたマルクス・エンゲルスとレーニンの先進国革命論が具体化される過程で起きてくる諸問題――たとえば憲法と構造改革闘争との関係、議会革新の闘いと直接民主主義をめざす闘争との関係など――の究明である。しかし最も重要な点は部分的、段階的、斬進的な闘いとその発展が、今日の情勢のもとで総体的全過程の質的飛躍をどのようにもたらすことができるかということであろう。たしかに、しばしば引用されるように、「一つ一つをとれば、どのような民主主義も社会主義をもたらすものではない。だが、実生活では民主主義は、けっして『一つ一つとられる』ものではなく、他のものと『いっしょにとられる。』それは経済にたいしてもその影響をおよぼし、経済の改革を促すとともに、経済的発展の影響をうける、等々。これが生きた歴史の弁証法である。(10)」(レーニン)

しかし今日では先進諸国の賢明な支配者たちは、民主主義を圧迫し、もぎとることだけを覚えていた彼等の先輩たちと違って「いっしょにとられる」ことを警戒して上から一つ一つ「民主主義」を分け与えさえする。したがって今日では自然に「いっしょにとられる」ことはない。それは意識的な追求によって「下から」もぎとる闘いの戦線を広げ固めることなしには「いっしょにとる」ことはできない。「生きた歴史の弁証法」は時代とともに発展変化する。

(1)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)四七頁。

(2)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)四七頁。

(3)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)五〇頁。

(4)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)五二頁。

(5)グルッピ「マルクス主義国家論」二八七頁

(6)「イタリアの共和国憲法」(「世界憲法集」岩波文庫)以下同。

(7)グルッピ「マルクス主義国家論」三〇三頁

(8)カリリヨ「スペイン人民戦線の今日的教訓」(「スペイン人民戦線史」新日本出版社)二四五〜二四六頁)。

(9)カリリヨ「スペイン人民戦線の今日的教訓」(「スペイン人民戦線史」新日本出版社))二四八頁)。

(10)レーニン「国家と革命」(全集二五巻)二八九頁)。

 

三、「日本型構革論」の克服のために

 

中村丈夫、藻谷小一郎両氏は、「「日本型構革論」の痛烈な批判と評価をされた「『構造改革』の構造改革論」(一九六六年)で、次のようにのべている。「『日本型構造改革』は、ひとくちにいって、この構造改革を革命路線全体の論理とそれを推進する主体形成の論理からきりはなし、民主主義的介入一般の可能性を安易に強調して、『構造改革主義』のイデオロギーにまで昇華していったと考えられる。(1)」と。勝部元氏もまた「構造改良」(先進国における社会主義への道)の中でこれに肯定的賛意を表している(2)。しかし、それは日本的な構革論の欠陥を正しく指摘しているであろうか。

この論文はまず主体的実践的なかかわりとの関連で批判が展開されている。そこでは戦後の歴史的な諸闘争と日本の現状の中で、それに対応すべき革新の状況を分析し、とくに日本共産党の党内闘争を源流とするいわゆる「構造改革派」の発生と分裂の過程と現状とを批判した上で、「日本型構革論」は、「日本共産主義運動の政治的、思想的混乱の中での一種の崩壊現象として発生した」と断定している。「崩壊現象」であるかどうかは評価の問題であるとしても、この中でも、また「構造改良」(勝部元)でも指摘されている「社会主義革新運動」の発生と成立の基盤がいわゆる「構造改革論」でなかったことだけは、最初からその創立に参加した一人として断言することができる。むしろ影響あつたとすればその後であり、しかも「構造改革論」については賛否それぞれあってついに意見の一致を見ることなかった。

中村氏等は、「日本型構革論」の理論的特長の「要点は、構造改良を民主主義・社会主義の構成要素としてとらえ、これを中間点とする戦略路線の総合的発展を推進するかわりに、構造改良を部分的に切りはなして拡大解釈し自己目的化したことである。」と指摘し、結局、「『日本型構革論』の本質は、民主主義・社会主義の道の解体であり、日和見的修正主義であることは、いまや明らかであろう」という。ここには、中村氏等が描いている「民主主義・社会主義革命」の構想があり、それと照らし合わせての批判が展開され「断罪」されている。

それでは一体、「日本型構革論」とは何であったのか。中村氏等が批判しているその「理論的内容、理論構造」の問題点については全く賛成であるが、今ここで詳しくその批判を紹介する余裕はない。しかし「日本型構革論」の特長は、当時普及された解説書である「構造改革とはどういうものか」(石堂清倫・佐藤昇編)の中で端的に示されている。それは、「国家独占資本主義が生産力の発展に見合う生産関係の社会化の形態であるとすれば、政治的民主主義はその上部構造におけるあらわれであって、いあわば“権力の社会化”ともいうことができる」という分析の上にたって、「経済の面での構造改革の内容は、一言でいえば独占の経済政策を転換させ、独占資本主義の経済構造――生産関係を部分的に変革すること」であり、政治の面では、「広範な大衆が権力過程に参与してくること」である、と(3)。当時から今日に至るまで、「構造改革論」については多くの文章が書かれ、またとくにその客観的必然性の根拠としての国家独占資本主義論については厳密な理論が展開されてきたが――それ自体は一定の限度内できわめて重要な理論的寄与でもある――これほど単刀直入にその特長を描いて見せたものはない。しかしそこにおいてこそ問題があるのだ。佐藤昇氏はさらに国家独占資本主義について、「国家が再生産過程に介入し、それを計画し、管理するという契機だけをとり出せば、そこに社会主義の一種の“陰画みたいなものができ上がっているともいえる。『逆社会主義』ですね」ともいい、また「構造改革論は、このように国家独占資本主義のもとで成立する『逆社会主義』と強力な大衆的民主主義運動の結合という方向に社会主義をてんぼうするという(4)」という。しかし、この「逆社会主義」というとらえ方の中に、中村氏等のいうように、「民主主義的介入一般を容易に強調」するばかりでなく、社会主義革命を社会・経済の全肢体を変質させる闘いとしてでなく、一定のキー・ポイントの切り換えととらえる決定的な誤ちである。そうしてその点でこそまさにグラムシ理論と正面から対立する。

長洲一二氏の場合は、構造改革の可能性と必然性は資本主義の基本矛盾にまで「深め」られる。「資本主義の発展は、資本の支配の強化という面と同時に、労働者にたいして資本の支配を制限しその内部に滲透することを可能にするような資本にとっての自己否定の契機をも発展させている。」そうして、「構造改革論はこの資本の自己矛盾を、変革のためのテコとして最大限に活用しようということにほかならないと思う(5)」と。長洲氏はさらに「ブルジョア民主主義の自己矛盾的二重性」についてマルクスとエンゲルスを引用しつつ次のように定式化する。「富の特権とブルジョア独裁の物質的根拠である資本主義的生産関係が、抽象的で形式的な万人の自由・平等を必要とする。・・・・・・・ところがこの自由・平等は、まさにその抽象性と形式性のゆえに、一般性と普遍性を獲得し、ブルジョア的という実質的制限を突破する潜在力をもっている。(6)」と。ここには「日本型構革論」のいっそう深い「哲学的」基礎がある。こうして「日本型構革論」の根拠は次第にさかのぼって「弁証法」一般に解消される。それはいつの場合でも実践の媒介を抜きにして、世界にまれなほど緻密でスコラ的な論議に身をやつす日本マルクス主義研究の特長的な典型の一つでもある。それはグラムシの概念を借り、イタリアの闘いを引用したとしても、しょせんそれとは異質なものである。それは中村氏がいうように「主体形成の論理ときりはなし」たからでもなく、また「民主主義・社会主義革命の構成要素」としてとらえなかったからでもなく、その「論理」自身が革命闘争を指導する「理論」でなかったからこそ没落した。それは「窮乏革命論」との対比の上で魅力あるイメージとはなっても、ついに「大衆をとらえる」ことはできず、したがって「物質的な力」には転化できなかったのだ。

ここで是非とも必要なことは、「日本型構革論」がいわゆる「反独占民主改革闘争」と二重写しになっていることを明らかにすることである。現に「構造改革派」と目されていた「社会主義革新運動」の最初の綱領案ともいうべき「『社会主義への日本の道』についての要綱」が提起していたのもそうであった。

「今日、日本の労働者階級の社会主義をめざす闘争は、平和のための闘争と中立による民族の完全独立のための闘争、ならびに反独占民主主義改革のための闘争を通じて前進する。この過程で労働者階級は、広範な人民層をその周囲に結集し、統一戦線を確立し、平和と民主主義の政府を樹立して民主主義を徹底するなかで国家権力そのものの労働者階級への移行を実現する。・・・・・この民主主義的革新の闘いは、一方では政府の政策変更、独占体の制約、これにたいする監視と統制を要求する闘争、労働者階級の生産点での管理闘争を基礎に社会、経済、政治諸制度の民主的改革をもとめる闘争とならざるを得ない。(7)」

この「要綱」の中には、「労働者階級と勤労者の生産点での闘争を基礎にして、国家独占資本主義体制の全機構の内部に管理、統制その他さまざまな形態による民主勢力の進出のためにたたかう」という一見「構造改革」的要素も含まれているが、全体としては、議会利用による平和移行論まで含めて「八一カ国共産党・労働者党代表者会議の声明」(一九六〇年)で新しく規定されたいわゆる「反独占民主改革」による社会主義革命論とほとんど変わりはない。ただ当時日本共産党がみずから無理矢理に押し込んだ「アメリカ帝国主義の政治的・経済的・軍事的支配下にあるヨーロッパ以外の発達した個々の資本主義国」ということばにこだわって、「反独占民主改革闘争から社会主義へ」という方向を拒否していたことで「新しさ」がめだっていたにすぎず、その意味で綱領論争の延長として日共批判の域をでなかった。

しかし、いわゆる「反独占民主改革闘争」という構想は、世界と各国の新しい政治・経済構造の変化に対応する「社会主義革命における民主主義闘争の新たな発展」ではあっても、もちろんレーニン=グラムシを通じる先進国革命の大胆な転換を表明したものではない。それはこの生命を擁護して書かれたと見られる「現代独占資本主義の政治経済学」(ソ連)の中でもあきらかである。

「いうまでもなくこうした民主主義的綱領の実現は、国家権力の階級的性格を変えるような、また、労働者階級とその同盟者が国家の活動に実際の影響を及ぼすのを保障するような、根本的な社会的=政治的改造なしには考えられない。政治権力をよりどころにしてはじめて労働者階級は、ブルジョアジーの政治権力にたいする真の制限を達成できるのであり、経済生活と社会生活に対する独占体の強制を根絶できるのである。

こうしたことから、熟成した民主主義的変革のための闘争が不可避的に革命的性格を帯びることが明らかになる。・・・・・またこの理由で民主主義的変革のための運動が、大衆の革命化と、かれらを社会主義革命のスローガンにひきつけるためのもっとも重要な手段の一つとなるのである。

・・・・・この綱領の実現は社会主義のための闘争の直接の展開にとって、決定的な諸前提をつくりだすのである。(8)」

ここでは、反独占民主改革の実現はしょせん権力の変革なしにはあり得ず、この闘いは結局、大衆を社会主義革命へ組織する手段であり、政治的・社会的=心理的な前提とみなされている。これはすでに見てきたような統一戦線の戦略的展開の延長線上にあるというよりも、コミンテルンの統一戦線戦術に逆もどりしているとさえいえる。しかし今日問われているのは、フランス「五月」の闘争にみられるような国家独占資本主義の「危機」的状況の発展の下で、グラムシ=トリアッティの「段階的発展」論=「陣地戦」論が有効なかどうかという問題なのだ。「陣地戦は終わった」とするマグリは、諸改良と革命的危機との関係について次のようにいう。

「順次の改良的諸行為をつうじて資本主義から社会主義に移行する過程、国家の頂点への指導諸集団の斬進的接近の道である過程に、革命的飛躍を解消することがいまでは可能であると考える戦略と、これに反して、不可避的な革命的危機を最善の条件のもとに成熟させ、まさに危機のただなかで国家機構を奪取し、粉砕する反体制諸ブロックを結集するための具体的な仕方として、改良諸闘争を考える戦略とのあいだには、実際に、もはや中間の道の余地はあり得ないのである。(9)」

そうしてマグリは、「多年の経験とこれまで述べてきたような事態は、この後者の路線だけが現実の試練に耐えうることを証明している」と主張し、「上述の闘争が真の破壊をあらわすものとすれば、いっそう先鋭な敵対の諸前提がうみだされ、したがって、結局は武器の暴力が不服従と大衆闘争という『平和的』暴力によって革命的飛躍を刻印せざるを得ない危機への突入が切迫する、ということを意味するのである。(10)」と断定している。ここでは明らかに「陣地戦=段階論」は否定され、古典的な「危機革命論」が形を変えて再登場している。マグリをしてそうさせたのは「中ソ論争」であり、「五月」闘争であったが、「五月」闘争も今日では重要な痕跡を残しながらもフランス国家独占資本主義にのみ込まれ、中国もまた「中間地帯論」による「反米」主義から「中米協調」論へとゆるやかな転回を示しつつある。

「日本型構革論」もまた、中村氏等の指摘するように、「党内の最大限綱領主義、トロツキスト的傾向、北京近似路線などにたいして無力でこれを克服できなかった」し、七〇年代闘争、とりわけ「新左翼」の「現代世界革命戦略」の批判に耐えることができず、なしくずしに崩壊した。しかし、その「新左翼」セクトも今やセクトの対立闘争のだけ存在理由を見出さなければならないほど凋落した。中村氏等がいうように、「『日本型構革論』が死して生きなくてはならない」とすれば、それは改めてマルクス=レーニン=グラムシから再追求するとともに、とりわけ日本の現実と歴史的闘争の事実から再出発しなくてはなるまい。

今、なにより重要なことは、われわれが置かれており、われわれをとりまいている事実を徹底的に探求しなおすことだ。(つづく)

一九七四・四・二

(註)

(1)中村丈夫、藻谷小一郎「『構造改革論』の構造改革」(「新世界」一九六六年一月号)以下同じ。

(2)勝部元「構造改良」(潮文庫)二五一〜二五四頁

(3)石堂清倫・佐藤昇「構造改革とはどういうものか」(青木新書)一四頁、二〇頁。

(4)「先進国革命と社会主義」(梅本克己・佐藤昇・丸山真男「現代日本の革新思想」河出書房新社)一五二頁〜一五三頁。

(5)長洲一二「構造改革論の形成」(現代の理論社)八四〜八五頁。

(6)同前 一九〜二〇頁。

(7)社会主義革新運動「『社会主義への日本の道』についての要綱」(「新しい時代」一九六一年第一号)

(8)世界経済・国際関係研究所(ソ連)「現代独占資本主義の政治経済学」三八八〜三八九頁。

(9)マグリ「フランスの『五月』と先進国革命」(「先進国革命論」現代の理論社)一五四頁。

10)同前 一五四〜一五五頁。


新しい革命と新しい党(4)   ―長谷川論文の批判によせて―

松江 澄   労働運動研究 第57号 S4971

 

 この稿を書き始めてからすでに4ヶ月たった。書いている間に、当初考えていたより多くの問題にふれなければならなかったし、またあれこれの引用も多くなった。それはノートのつもりで書いてきたためでもある。しかしこれも、戦後出発した一共産主義者が、とくにこの十年間ためこんできたというよりも、迷いつづけてきた追求の経路を整理して、現実に立ちむかう上で必要な「手続き」でもあった。ここで書いてきたことは、それでも私にとっては一つの問題意識をおいつづけてきたつもりではある。それは、あれこれの時代、あれこれの国の革命と革命論を、その時々のプロレタリアートの闘う歴史的条件との関連のもとで把握し、またとくに先進国革命“における「危機と変革」とのかかわりあいに焦点を求めのささやかな追跡であった。そうして、このような私の問題意識の底にふれたものの一つが、労研一月号の長谷川浩「現時点における革命党の思想建設」であった。ある意味ではこの「論文」が私の書きはじめた動機の一つであったといってもよく、したがって常にこの「論文」を意識して書いてきたといってもいいすぎではない。そこで長谷川論文の批判を提起しながら、私なりの考え方を明らかにしておきたいと思う。

 長谷川論文は提起されている問題の重要さばかりでなく、提起している「人」の歴史的な重さのうえでも重要な意味を持っている。それは、戦前以来苦闘に苦闘を重ねてきた共産主義者の、私心のない公正さと反省の深さで読む者をうつ。ここで書かれている以上に、その行間にうかがえるその時々の闘いの切実さが、私にもかすかに想像できるからである。にもかかわらず、私とってはこの「論文」の主張には無条件に受け入れることのできないものがある。それはただ長谷川浩個人の問題というよりも、日本の歴史的な運動と、したがってまた現時点の運動に直接かかわっている問題でもあるからだ。

 

プロレタリアートの闘いの歴史的条件

 

 長谷川論文(以下論文という)はまず党建設の課題の今日的切実さの理由にふれて、次のように指摘している。

 「党建設の問題が、今いっそうの切実感をもって提起されて、いままでとは違って真剣に取組むことを要請されているのは、最近の労働運動をはじめ広範な大衆運動、総じて日本の階級闘争自体の発展が、その武器としての党建設なくしては闘いぬけない具体的な問題に当面しているからであり、そのことによって主体的にも現実に党の基礎となり構成要素ともなるべき労働者の先進部分、前衛的な要素を種々な形で生みだしているからである。戦闘的な労働者、誠実な活動家が、既成の革新政党に失望し、新生の諸セクトに批判を抱き、しばしば政党組織そのものに対する不信にさえ陥りながらも、なお、真に科学的社会主義の思想に貫かれた党に思いをはせ、党建設の問題を追及せざるを得ないのは、彼らの闘いそのものが、ますます切実にこの問題をつきつけているからである。」

 私は広島でささやかな実践的追求にとりくんでいる一人として、この指摘は全く同感であり、正にこの提起はそのものとしてわれわれつき当たっている問題である。多くの活動家がここでいわれている「労働者全共闘と名ずけれられているのが適当か否かは別として、内容的には切実に理解することができる。また「論文」がいうように、求められている党が、「労働者階級に服務し、その闘いの武器として役立つ党」であり、「闘っている労働者、勤労大衆とともに行動し、解決する組織的条件となり、激動する内外情勢のもとで、現実の闘いの中に革命へ接近する道を追及して止まない党」であることもそのとおりである。

しかし、そのためには何が必要であろうか。

「論文」は戦後の党の思想的不統一の原因をさぐりながら、それを、「常に自らを大衆の上におき、自己の意思を大衆に押しつける指導者意識――先験的には党は大衆の指導者であるとする根強い意識」だといい、戦前の経験にもとづいてその淵源は「テーゼから現実を『かくあらねばならぬ』と規定する主観主義・教条主義」に由来すると指摘する。その根源は、「真に『科学』することによって独創的なものを発展させる面で、きわめて貧しかった一般的風土を容易に脱け出られなかったこと」にあると既定し、具体的な原因としては弾圧の中で大衆から孤立、遊離して小さなセクト的集団になったことだと指摘しながら、スターリンの戦略・戦術規定における形式主義こそその思想的な根拠の重要な一つであるという。そうして戦後はこの主観主義・教条主義が事実の変化と発展を見誤り、党の組織原則を硬直化させたといいながらレーニンの思想闘争を引用して民主集中制のあり方をとき、この主観主義・教条主義が、「プロレタリアートの階級独裁を、即、党の独裁と誤る危険さえ生む基本的な思想問題である」と断定する。こうして「論文」によれば、戦前から今日に至るまで、諸悪の根源はあげて主観主義・教条主義、形式主義にあり、みずからを高しとする指導者意識であり、この克服なしに革命党の決定的に重要な位置を占める中央委員会を建設することはできず、したがって革命党の建設は不可能であるという。それはまた、テーゼを絶対化する思想を克服することなしにテーゼをつくることは、革命党の建設にとってかえって障害になるという考え方にも通ずると思われる。

しかし、果たして過去および現在の党建設の問題を、このように一般化し、唯一の思想問題に帰納することは正しいであろうか。われわれにとって重要なことは、どんな思想問題も、それを時代と社会を超越した一般的な思想問題に解消するのではなく、プロレタリアートの闘いのどんな歴史的条件のもとでどんな思想が生まれ、どんな思想と闘うのか、ということではあるまいか。

例えば「論文」も引用しているレーニンの思想闘争――自然発生性に対する目的意識性の闘い――もその一つであり、スターリンの戦略・戦術の規定に表われている教条主義・形式主義との闘いもその一つである。周知のようにレーニンの党建設論の中心は、「何をなすべきか」――これは労働組合論ではなく党建設論であろう――等で明らかにされているように、自然発生性の克服と目的意識性の強調におかれている。しかし、それは一般的な党建設論としてではなく、当時の情勢と条件の下でのロシアの前衛党建設論として貫かれている。当時のロシアは、マルクスがプロレタリ革命の条件として一般的に予想していた状況とは、明らかに異なっていた。すなわち、「産業ブルジョアジーの支配がはじめて封建社会の物質的な根を引き抜き、そのうえでのみプロレタリア革命をおこなう基盤をならす」のではなく、「急激に発展したロシア資本主義とおくれた農民的ロシアとが、戦争という未かい有の併存していた」((一)の二)という状態であった。これは単に情勢の相異としてだけ見るべきではない。何故ならば、ブルジョアジーの支配のもとで、ブルジョア民主主義の中で、プロレタリアートの多数がすでに労働組合に組織されている状態を前提としたプロレタリア革命――革命党の建設と、ブルジョアジーはまだ完全な指導権を掌握せず、前近代的な思想が社会を閉じ込め、プロレタリアートの多数がまだ労働組合に組織されていない状況のもとでのプロレタリア革命――革命党の建設とを同日に論ずることは適当ではないからでる。もちろんプロレタリア革命と革命党建設のもっている普遍的な原則と共通な性格はあったとしても、なおそこには大きな相異があるし、またそれが当然のことでもある。当時のロシア社会の状態の中では、今日のような自然発生的な組織と運動を期待することができないばかりか、自然発生性は革命の足をひっぱり、革命党の建設を停滞させるものでしかなかった。レーニンが直面したのは、絶対主義下のプロレタリア革命と党建設であった。そこで最も必要とされることは、自然発生的な「組合主義的政治」と闘って目的意識的な「社会民主主義的政治(共産主義的政治)を外からもちこみ、革命の目的意識的な表現としての強固な革命党を是が非でも急いでつくり上げることであった。それは単なる組織問題としてだけではなく、またすぐれた運動の問題でもあった。運動の自然発生的な「後進性」は目的意識的な革命党の「先進性」で補完されなければならなかった。 したがって当然にも必要であったのは、党組織の「ゼムストヴォ」的(共同体的)な地方自治的性格ではなく、「工業」的で強固な中央集権的性格であった。当時のレーニンにとって、それは党建設の闘いであるととともに、党組織にあらわれた当時のロシア社会の絶対主義的な性格との闘いでもった。 こうしてレーニンの目的意識性、中央集権的組織性は闘いとられた。したがって具体的な歴史的条件下での具体的な闘いを一般化することと同じように、その後スターリン=コミンテルンにうけつがれた官僚主義的な「鉄の規律」をレーニンの責に帰することは全くまちがっている。そうではなく、当時のロシア革命党はこうしてこそはじめて確立することができたのであり、そこにこそレーニンのすばらしい理論と実践がある。問題は十月革命後にある。

スターリンは、このレーニンの闘いからマルクス主義の「魂」――具体的状況の具体的分析――を抜き去り、「一国社会主義建設」の権威ためにレーニンを借り、レーニン主義という名の「スターリン主義」をつくりあげて。軍事的封建的帝国主義の下でのプロレタリア革命の過程と渦中における苦難な党建設の闘いと、権力奪取後とくに内戦終了後の党建設のあり方とは当然異ならなければならなかった。しかしスターリンは、自己の指導権を維持するために、レーニンを利用さえしたのだった。それはただ党建設だけの問題ではなかった。「論文」が引用している「レーニン主義の基礎」は、スターリンの講演が一九二四年四月、五月の二ヶ月に亘ってプラウダに連載されたものである。それはレーニンを偲んで行なわれた講演ではあったが、それはまた新しい「スターリン主義」の出発点でもあった。「レーニン主義の基礎」は直ちに多くの国々の共産主義者とその集団の教科書となり、長く現代マルクス主義の「規範」となった。私も入党して戦略・戦術についてはじめて読んだのはこれであり、また新しく入党した党員諸君にこれを教育したことを昨日のように覚えている。ここにとかれた戦略・戦術規定は、コミンテルンをとおして各国共産党のテーゼ作成の基本になったばかりでなく、テーゼを理解し解釈するためのもっとも有力な武器となったが、「論文」の指摘する三二テーゼの場合も例外ではなかったと思われる。

結局、レーニンの党建設の闘いの教訓を学ぶとしたら、決してその一字一句を絶対化することによってではなく、また「論文」がいうように思想問題にお還元することによってでもなく、当時のロシアの条件の中でどのように闘われたかということが重要なのであり、そうしてこそレーニンの闘いはわれわれにとって欠くことのできない偉大な教訓なのだ。どんな革命的な闘いも、どんな革命党の建設も、そこで闘うプロレタリアートの歴史的条件を抜きにしてはあり得ないからである。

しかし、戦前の党が三二テーゼを受け入れた時、「論文」が指摘する主観主義・教条主義が生まれたとすれば、それにはもう一つの原因があったに違いない。それは当時の日本の社会、当時の日本プロレタリアートの闘いの歴史的条件である。それは「論文」の筆者がもっとも良く知っているように、天皇制テロルの過酷な圧迫のもとにおける闘いであり、いわばかつてのロシアと同じように、絶対主義下の革命党建設であった。自然発生性よりも目的意識性が、民主性よりか集中性が、労働組合の発展よりも党の革命が何より先行したとしても不思議ではなく、むしろそうすることによってのみ困難な中での党建設を進めることができた面をみのがすことはできまい。それを今日におけるのと同じような意味で一口にセクト主義と断罪するなら、それは歴史的条件を無視することになるのではあるまいか。もちろん、過酷な弾圧が強ければ強いほど柔軟で豊かな戦術が必要であろうし、困難であればあるほど大衆の自然発生性をくみとることが重要であり、当時の党にこうした力量がなかったことも事実であろう。しかし、戦後の共産主義者が当時の日本の地理的、歴史的、社会的条件を全く抜きにしてセクト主義を語ることは、口先のキレイ事になるのでなかろうか。むしろ問題は戦後にある。戦前の正確な総括をすることによって新しい党建設、新しい革命論を追求すべきときに、依然として三二テーゼと古い党建設論――大量入党方針は戦前の党の無反省な裏がえしにすぎない――にしがみつき、押しつけつづけたところにこそ問題がある。

こうして見れば、戦前の党がスターリンによって教条化されたレーニンの「目的意識性」を無条件に受容したことは、理由のないわけではない。重要なことは闘いの歴史的条件を明らかにすることであるともに、誤りの具体的条件を明らかにすることであって、一、二の思想的偏向に帰納することはできない。

またこの際にあきらかにしておく必要があるのは、「論文」も指摘しているプロレタリア独裁と党独裁との関係の問題である。党独裁が容易に中央独裁となり個人独裁に転化していった過程は、すでに指摘したロシア革命当時の党組織論にひきつづく固定化と教条化にあったことはいうまでもない。しかし、それだけではプロレタリア独裁が、どうして党独裁に転化したかを明らかにすることはできないし、まして「論文」がいうように、それを主観主義・教条主義のためだと簡単に片づけるわけにはゆかない。それは何一つ解決したことにはならないばかりか誤っている。ここには民主主義の問題がある。

レーニンは「国家と革命」の中で、民主主義の二つの側面を指摘している。その一つは国家形態としての民主主義であり、他の一つは市民的自由=民主主義の側面である。だがレーニンは、当時の情勢と条件の必要からもっとも闘う必要があった国家の問題、したがってまた国家形態としての民主主義の問題に集中した。レーニンが闘ったのは、将来の国家の「死滅」と現在の国家の「粉砕」をすりかえるアナーキズムであり、またブルジョア国家を擁護するあらゆる種類の弁護論者たちであった。それは十月革命を前に「国家と革命」が書かれた当時の情況の下で、もっとも必要なことでもあった。しかし今日のわれわれにとって見のがすことができないのは、レーニンの指摘した民主主義のも一つの側面である。そうしてそれこそが、マルクスによってはじめてヘーゲルの?倒した国家論が批判され「共同体の幻想」が打ちくだかれたとき、その分析の中から資本主義的生産の秘密をときあかした「市民社会」の民主主義であった。それは後にグラムシによって復活させられ(国家=政治社会+市民社会)、先進国革命にとっての重要な試金石となるものであった。((三)の一)

それは市民的自由として生れ、「籍」を同じくしながら国家形態としての民主主義――ブルジョア独裁の形態としてのブルジョア民主主義、ブルジョア議会制とそのいくつかの変種――とは別に、容易に越えることのできない「塹壕」としてわれわれの前に立ちふさがっている。今日、日本の革命運動から民主主義運動までもてあまし気味でもある戦後日本の市民的民主主義もその変種の一つに外ならない。それは市民社会がそのまま資本主義社会に転化して、上部構造の中でもっとも基底的な構造を形成しているものである。たとえ国会がどうなろうと、政府がどう決めようと、どこ吹く風と執拗に自己を主張しつづけるブルジョア社会の基底である。この基礎は資本主義的生産そのものにあり、それは社会が発展し、生産力とブルジヨア文化が発展する中で一層強固なものとなる。したがって変革にとって必要なことは、国家形態としてのブルジョア民主主義ないしその変種をプロレタリア民主主義におきかえるとともに、市民社会の基礎であるブルジョア的生産を真にプロレタリア的生産におきかえることを必要とする。そこに新しい変革――現代先進国革命――が、上部構造の変革=国家権力の奪取とそれによる生産手段の国有化にとどまるのではなく、生産それ自体の社会主義的変質を実現しなければならない理由がある。社会主義革命は、単に国家権力と生産手段の主人公をブルジョアジーからプロレタリアートへ移すだけでなく、文字どおりプロレタリア独裁――プロレタリア民主主義なのだ。

しかし、スターリンにとっては、国家形態としての民主主義を、支配階級からプロレタリアートの手に移すことで充分だったのである。そうしてそのことが、プロレタリア独裁をプロレタリアートの政治的代表者である党の独裁におきかえることに通じたのである。たしかに党はプロレタリアートの政治的代表者にはなり得るが、プロレタリアートそれ自体の代表者ではなく、したがってまた当然にもプロレタリアートの経済的代表者ではあり得ない。だが政治権力の変革は、経済権力の変革と切り離すことはできない。プロレタリアートの独裁とは、単に政治と政治形態だけのものではない。それは、ブルジョア独裁がブルジョア的生産とその経済権力を基礎にはじめて成立するように、プロレタリア的経済権力と生産の労働者自身による管理を基礎として、はじめてプロレタリア独裁は完成する。それはまた、発展しつくした資本主義的生産と爛熟したブルジョア社会の腐朽の成熟の中で、はじめてその対立物としてあらわれる。その意味で、プロレタリアートの闘う歴史的条件は、権力打倒の闘いだけでなく、権力獲得後の新しい生産と国家をも規定するのである。

 

戦後日本の民主主義とは何か

 

「論文」は党建設上のもっとも重要な障害であるとする主観主義・教条主義の克服を指摘するとともに、「党の思想建設は支配的思想との闘争である」といい、戦後日本のブルジョア民主主義、ブルジョア・イデオロギーとの闘いを強調する。それは、「独占ブルジョアジ−あるいはその協力者の政治的、思想的影響から広範な層を切離していく闘いであり、労働者階級の側に政治的思想的に獲得していく闘争である」と。また、「議会制民主主義における闘争は根底において議会主義思想との闘争であり――労働組合運動においても、その根底にあるものは思想闘争である」と指摘しつつ、トレード・ユニオンズムとの思想闘争を強調し、「このようなブルジョア民主主義・自由主義のもとに生活してきた広範な日本の勤労大衆の間に深くしみこんだその影響を克服し、思想の上で労働者階級のヘゲモニーを打立てる闘いは、先進国革命においてとくに強調されなければならない課題」であると主張する。

しかし、戦後日本の民主主義を単純にブルジョア民主主ととらえ、戦後日本の労働組合を単にトレード・ユニオニズムと規定することが適切であろうか。

「論文」は、「ブルジョア民主主義・議会制民主主義は、それがどんなに民主的に行なわれていても、本質的にブルジョア独裁であることはすでに実証ずみのテーゼである」といい、「政治はあらかじめ舞台裏で行なわれ、議会は独占ブルジョアジーの指導下に合意ができ上がったものを形式的に、これを『国民の総意』として追認する手段でしかない」から、「議会内だけの闘争ならそれは全く茶番にすぎない」と主張する。たしかにブルジョア民主主義は本質的にブルジョア独裁であるが、今日の民主主義と議会をこのように単純化することができるであろうか。もしレーニンのテーゼにしたがうならば、同じブルジョア独裁の形態でも、「自由競争には民主主義が照応する。独占には政治的反動が照応する。」今日の日本における戦後国家独占資本主義の上部構造を、単純にブルジョア民主主義と断定することは正しくない。そこでわれわれにとって必要なことは、戦後日本の「民主主義」を歴史的な事実と段階に即して明らかにすることである。「論文」は戦後労働運動に対して、「占領軍と日本支配階級が何度も強権をもって闘争を抑圧する」反面、「彼等は日本にブルジョア民主主義を定着させるため最大限努力した」といい、暴力的弾圧だけなら立直りはもっと早かったのに、「ブルジョア民主主義の政治と思想による攻撃こそが打撃を持続的なものにし、運動の停滞を長びかせたといえないであろうか」となげく。しかし、そのような見方は正しくない。

敗戦によるアメリカ帝国主義の占領は、日本帝国主義の経済構造のうち、基底を残してその独占的な上部を一応破壊し、上部構造についてはその形態――政府、議会、官僚機構、地方自治体――を維持させながら、事実上の支配権を握った。それは戦争の敗北者に対する勝利者としての当然の措置というだけでなく、「反ファシズム戦争」の戦後処理という名のもとに、ブルジョア的支配を維持しながら、アメリカ帝国主義の重要な競争者を二度と強力には再起させない程度の「民主化」政策であった。しかしこうした「民主化」政策は、かれらがのぞむような穏和な「民主主義」に満足するには、余りにも激しかった戦前戦中の圧縮された怒りとエネルギーが燃え上がりはじめるや否や転換し(二・一スト前後)闘う労働者階級と人民に対抗できる限度での、日本資本主義とその政治体制の援助と協力へと移行した。残された基礎構造は息を吹きかえして活動を始め、形態をとどめた上部構造はその内実をとりかえし始めた。こうした占領軍と日本支配階級の二重権力に対応して定着しつつ、戦後日本の民主主義は講和後にひきつがれた。それは、戦前戦中の圧迫が強ければ強いだけ、烈しく噴出する民主主義エネルギーとして爆発したが、最初はほとんど無条件に、しかしまもなく次第に強くなるタガの締めつけで、最後には一定の限度内で弾圧する占領政策によって規定された「民主主義」であった。

それは、一国的状況だけからは判断しがたい状況であり、日本の支配階級と占領軍との二重権力による二重の規定であった。それは最初はアメリカ占領軍のほとんど支配的なヘゲモニーから、やがて日本支配階級のヘゲモニーへと継承された。それはまた個体発生が系統発生をくり返すように、戦争と占領による経済構造の破壊と再生に照応して、はじめて生まれたごく短いブルジョア民主主義の誕生期から外国帝国主義支配下の鎖につながれた民主主義を経て、中和された講和後の「戦後民主主義」まで、僅か五、六年の間に幾十年もの経験を圧縮して再現したといってもよいだろう。それは単に国家形態としての政治的民主主義ばかりでなく、市民社会の民主主義の場合にも例外ではなかった。この間における日本の家族構成の変化と、社会構造の移行をめぐる激突と対流はこれを物語っている。

こうして戦後日本の民主主義は、決して単純なブルジョア民主主義と規定するには、あまりにも複雑な諸要因を含んでおり、むしろ「論文」がいうように、「ファシズムではなかった」が、ある意味では大戦後間の国家独占資本主義のも一つの支配形態であったアメリカ的ニューディル型民主主義と、激突する初生的なブルジョア民主主義との奇妙な混合物としての「戦後民主主義」であり、正に、「近代的」帝国主義占領と壊滅した旧「反封建的」帝国主義のもたらした独得の産物であった。そこには議会制民主主義も、一定の程度で「茶番劇」を超えた相対的独自性をもちながら、同時に国民を「民主主義」的に統合する今日の管理民主主義の基礎が、すでに培われていたといえよう。こうした奇妙な混合物としての「戦後民主主義」も、高度成長による生産力の飛躍的発展と、帝国主義的進出が戦後世界体制の崩壊――再編成と同時的に進行する中で終わりを告げたが、その政治的指標としては沖縄の「復帰」、ラディカリズムの衰退、日本共産党の議会進出等があげられる。戦後民主主義は管理民主主義に継承され、「民主主義」的統合の中でまず教育とマス・メディアから新型反動が準備されようとしている。しかし日本における「戦後民主主義」がヨーロッパのようにネオ・ファシズム、「個人権力」の復活というコースをとらなかったのは、理由がないわけではない。それは労働者階級の闘いによって指導され、国民がはじめて経験した民主主義の定着性の意外な強さと、日本における市民社会構造の歴史的な弱さ――この強さがかえってファシズムを必要と可能にする――にある。それはまた日本の変革にとっても重要な要素となるに違いない。しかしそれだけに、「論文」のいうブルジョア民主主義以上に陰性で包摂的な「民主主義」的統合にからめとられる危険もまた強いといわなければなるまい。

それでは戦後日本の労働組合はどうであろうか。

それは戦後民主主義の発生と発展、変化に対応しつつ発生し、変化、発展した。敗戦直後、ごく短いブルジョア民主主義の誕生期に一斉に組織された労働組合は、労働組合というよりも工場委員会的なものではなかったか。それは敗戦による権力の動揺期に、党を先頭にしながらもなお自然発生的に立ち上がった労働者階級の、ある意味で革命的な組織ともいえるものでもあった。それは押えられた圧迫が強烈であっただけに、闘う組織をついくるエネルギーはかつて抑圧した権力に「反発」し「対抗」する力によって加速された。この時期の生産管理闘争は、「論文」もいうように、単に資本家階級の生産サボタージュに対抗する手段としてのものではなかった。それはまた生産復興のイニシャチーブを資本と争うばかりでなく、「奪いさられた生産」そのものを労働者階級の手にとりもどうための闘いに発展しる性質を内包していたといえよう。しかし、体制化された占領下で、それはやがてアメリカ的労働組合の機能をもつものへと変質・転化させられたが、それは占領軍を解放軍と規定した当時の党によって無意識のうちに肯定されていたのではなかったか。初生的な工場委員会組織に初生的な労働組合機能が接木された日本的企業内労働組合が発展し、やがて占領軍の期待するトレード・ユニオニズムのナショナル・センターとしての総評が生まれて「産別」は変わった。その後、初期の闘いの痕跡をもつ「地域ぐるみ」闘争はまもなく「半」労働組合的な「春闘方式」に替り、今日に至った。

日本における企業内労働組合は、工場委員会的な組織基盤(企業内全労働者の参加)を基礎としながら、労働組合的機能を果たすものとして定着し、その相乗的効果はしばしばスケジュール・ストライキによる企業ぐるみの全労働者闘争として発展するとともに、今日のように新しい階級的な闘いが職場からおこり、反合理化闘争、順法闘争に闘いの新しい質をつくり出す中で、その二重性格はかえって相互制約的な限界に転化しつつある。例えば、今日の反合理化闘争における事前協議制の闘いがその一つである。国鉄、電通等では、いずれも発展する反合理化闘争を背景に、本社・本部間の事前協議制が結ばれているが、この中央協定は多くの場合職場組合員にとっては二重の性格となっている。当局はもちろん、組合本部までが中央協定によって職場の闘いを統制するかである。一方では職場の闘いを強調しながら、他方ではこの闘いを中央協定の鎖に縛りつける中で、職場の活動家たちの闘う目標となったのは、生産現場での事前協議制の確立であった。しかし十年間の闘いの中で、事実はこの闘いが決して容易なものでないばかりか、すでにトレード・ユニオニズムの域をこえた闘いであることを示している。生産現場での事前協議制は、いわば職場労働者の事前同意権とでもいうべきものであり、それは職場の大衆的な拒否権を前提としながら、まだ積極的にではないが生産のヘゲモニーに迫る闘いであり、単なる労働組合闘争の戦術としてではなく、疎外との闘いから出発し、変革を展望する延長をもちながら生産管理へ接近する闘いでもある。労働力の取引闘争――流通過程での闘い――を超えた労働の管理――生産過程での闘い――を目指す闘争であり、したがってそれはトレード・ユニオニズムに包擁不可能な闘いでもある。今日の反合理化闘争は、労働組合の闘いとして出発しながら、それを超え、それを突破する新しい質をつくりだし、なお労働組合運動内にとどまりつつ、しかも労働組合闘争としては発展し得ないというジレンマに悩んでいる。それは敗戦直後の生産管理の闘いと似ているが、実は全く異なっている。それは生産設備の破壊と生産の放棄から生まれたものではなく、全く反対に、技術革新と生産力の異常な発展と資本主義生産の腐朽から生まれたものである。

ここには、戦後日本の労働組合を単純にトレード・ユニオニズムといい切ることのできないものがある。工場委員会的なものと労働組合的なものとの、奇妙なゆ着として生まれた戦後日本の労働組合とその運動が、労働者階級の闘いの発展の中で新しい質的転換を迫られているともいえよう。われわれにとって必要なのは、外国の労働組合論を移入することでもなく、また現状をただ肯定するだけでなく、特殊日本的な労働組合をどのように発展させるかが必要であり、可能なのかということである。しかし日本共産党の場合には、その任務を負うべき党と労働組合との関係もまた、他に例を見ない特殊な性質をもっている。

党も労働組合も、ともに労働者の闘う組織であるという同質的な側面は拒否ないし軽視され、専ら戦前からひきつがれた「神聖」な革命党は労働組合からみずからを分離し、「物取り」闘争は労働組合、革命は前衛党という分業の中でますます拡大する運動上の分離をとりかえすために「政党支持の自由」という形態での組織的ゆ着が進行し、そのゆ着を弁護するための運動上の分業と分離がすすむという悪循環が成立する。しかし内実は、党の労働組合への同化と奇妙な対照をなしつつ、いずれも同根の誤ちをおかしている。今必要なことは、党と労働組合の組織的な分岐を明らかにしつつ、むしろ運動上の協業関係をうちたてることである。「政党支持の自由」ではなく、「政党からの自由」によってこそ、真に労働組合の闘う統一は前進し、党と労働組合の共同の闘いからこそ、革命党の真のイニシャチーブを発揮することができるであろう。

 

何から始めるべきか

 

「論文」はつづいて、「ブルジョア思想の根底には自我(エゴ)にある」といい、この克服こそ革命党建設のもっとも重要な基本問題であると主張する。しかしこれは、「自我」それ自体についても、また革命党建設の基本問題としても正しくない。「論文」によれば、

「いうまでもなく、資本主義的な生産においては個々の生産物は商品として、ただ市場における競争の結果としてのみ、その社会に評価された価値として、受取る。したがって、社会的生産関係は個々の生産者の外にあり、彼らに対立する一つの外的必然性として彼らを制約・位置づける。個々の生産者は市場にのぞむまでは孤立した個人であり、独自の判断・裁量によって生産し、市場を通して実際に社会的関係に組入れられる。そこで競争に打ち勝ち、他人を蹴落としてはじめて社会的に位置づけられる。封建的な桎梏に対する自由と平等の意識は、そこから『平等な個人の自由な競争の権利』の要求として生まれ、社会関係に独立した個人の『自我の覚醒』をうながす。それは『我思う、故に我在り』の高尚なデカルト哲学から貪欲な利己主義にいたるまで一切の自我意識の物質的基礎である」と。

そうして「この社会的生産関係から独立した、あるいは社会的性関係に対立した抽象的な個人の自我の確立が、すべてのブルジョア民主主義の理念の根抵となる」と主張する。さらに「論文」は、この抽象的な個人の「自我」の発展形態として、普通選挙による議会制度、ナショナリズム(民族主義)にまで言及する。それはまた「民族主義的な極左翼冒険主義から、完全な議会主義への代々木共産党の転向、変質」の基礎であるとともに、ラディカリズムの基礎でもあり、それらを非難攻撃する諸党派の「自我」でもあり、「このような党派の『自我』が存するかぎり真に労働者階級の党である統一した革命党は建設できない」と断定する。しかし、ここには「自我」についての誤まった見解があるとともに、「自我」とブルジョア的自由と平等、ブルジョア民主主義とブルジョア・イデオロギーとの混同がある。

人間の「自我」の発生は、資本主義的生産によって始まったものではない。マルクスがいうように、人は鏡をとおして己を知る。人間は本来類的=社会的なものであるが、くりかえされる商品交換の過程で労働の対象化である商品をとおして「自我」を確立する。それは商品生産が支配的となり、人間の労働力までが商品となる資本主義生産の中で一層普遍的となる。しかし、「自我」は人間が商品生産――商品交換を開始する中で生まれたものであり、資本主義によって発生したものではない。

しかし自由と平等は、資本主義生産の中ではじめて「平等な個人の自由な競争の権利」として生まれる。資本主義のもとでは労働者は二重の意味で「自由」である。みずからの労働力を自由に売ることができ、またすべての生産手段から「自由」であるという意味で。そうしてまた、対等に、全く「公正」に資本家と取引できるという意味で「平等」でもある。しかしブルジョア的自由と平等は、常にプロレタリア的自由と平等の影につきまとわれる。それは「形式」から「実質」へと弁証法的に発展しながら、ついには真の自由・平等としての階級の廃絶を要求する。だからこそブルジョアジーは、あらゆるイデオロギーを動員して労働者階級を精神的にも支配する。彼らは物質的生産手段をあやつることができるばかりでなく、精神的生産手段をあやつることもできるので、精神的生産のための手段を欠く人々の思想は支配階級の思いのままとなる。

「自我」は「自我」であり、ブルジョア的あるいは小ブルジョア的「自我」という特殊な範疇はない。あるのはブルジョア・イデオロギーであり、闘うのはブルジョアジーの精神的支配との闘いである。すべての悪の根源を「自我」に求めることは正しくない。

「論文」はまた「疎外」の問題にふれて、反独占の「自我」を「発見」する。

「独占資本主義が高度に発展し、社会生活が画一化されるなかで、社会的生産関係に対立する小ブルジョアジー的な個人派、独占資本が決定した生産の枠組みのなかに規格化されたコースで入らないかぎり、社会的な存在になりえない。労働者はいっそうきびしく機械の部分品にされる。個人の生活はますます一定の鋳型の中にはめこまれ、人間性は疎外されていく。この型にはまった生活を打破って個人の自由を求める。一切の制約を否定した『自我』の命ずるままに行動する。」

そうして「これは客観的にみて確かに一つの反独占の意識であり行動である」と「自我意識の新しい意義」を指摘し、それを「ブルジョア・イデオロギー自体の精神分裂症状の現われ」と規定し、独占資本主義の発展する中で、「ブルジョア民主主義の諸思想そのものが分裂し、反独占の性格を帯びてきている」が、それ自身は反発とはなっても独占資本主義を止揚する思想・行動にはなり得ず、そこでこそ労働者階級の基本的立場が求められるという。

しかし、一切の「疎外」の根源は「労働の疎外」であり、それこそが労働による生産物を労働者から疎外する原因であるが、これは資本主義によって発生したわけでもなく、もちろん独占資本主義が生み出したものでもない。それは私有制の開始とともに発生し、資本主義はそれ以前の私有制と異なり、経済内強制によって「労働の疎外」にヴェールをかぶせてかくしたが、独占資本主義の技術革新と新しい機械の発明は、あたかも経済外強制のように「疎外」を再びあらわに暴露する。そこにこそ「疎外」にたいする新しい闘いが始まる理由がある。それは多くの場合まず組織されない個人的な抵抗としてはじまるとしても新しい闘いの基礎である。これはもちろんブルジョア・イデオロギーでもなければ、またブルジョア・イデオロギーの「精神分裂症状」でもない。そもそもブルジョア・イデオロギーが「精神分裂」を起こすことはあり得ず、ブルジョア民主主義が「分裂して反独占」になることもあり得ない。あり得るのは反独占闘争の発展によってブルジョアジーそのものの一時的「肉体分裂症」――独占と非独占、大ブルジョアジーと中・小ブルジョアジー――であり、おこり得るのは諸階層の闘いが、プロレタリアートの指導的な闘いによって「反独占」の性格を帯びるようになることである。

結局、一切のブルジョア思想の根源を「自我」に解消し、思想闘争の基本を「自我」との闘いに求めることは闘いを抽象化し、一般化するだけでなく、まちちがってさえいる。

「論文」は最後に、こうした思想闘争をすすめる基礎であり、革命党の「原理原則における民主主義の根源」として、労働者民主主義あるいは「組織された民主主義」という概念を突然提起する。

「いうまでもなく、労働者は資本主義の成立とともに、資本に対立し資本主義を変革し、人による人の搾取を廃絶すべき歴史的使命をになった階級として生まれた。労働者個人は、社会的生産関係に対立する個人としてではなく、社会的生産関係のうちにあって階級を形成し、この階級の一員として具体的に存在する。労働者個人に階級に属するとともに、労働者個人のうちに階級がある、すなわち労働者は本質的に組織的である。」

しかし、これはまちがっている。労働者は社会的生産関係から疎外されている。それは「労働の疎外」の一つのあらわれでもある。だからこそ「疎外」を自覚する労働者階級は、本来の社会生活、社会的生産関係をとりもどすために、革命的階級としてその歴史的を果すのだ。しかしこうした階級的自覚は、自然には獲得されない。たしかに現代の疎外現象は、自然的にも抵抗を生み出す。しかしそれが組織的で系統的な闘いとなり、単なる反発   ではなく革命的な闘いとなるためにこそ、革命党が必要なのだ。労働者は「本質的に組織的」なのではなくて、「本質的に組織的な『質』」を歴史的にもっているのである。しかし重要なことは、労働者階級の巨大な「歴史的自我」を誰が引き出し、誰が組織するのかということなのだ。

たしかに私は、「現代先進国革命の最も重要なカナメは、この自然発生性と目的意識性の正確な結合であり、その結合の形態としての党の問題である」といい、また「『自然発生的』な大衆を指導する『目的意識的』な党でもない」とのべた。((二)の三)それは、すでにふれたような一定の条件の下でのレーニンの「目的意識性」を教条化し、絶対化する党組織論の批判として提起した。しかしもちろん、革命党は自然発生的に出来上がるものではない。それは意識的進出と組織化の中からのみ生まれる。重要なことは、この党が現代革命の重要な契機ともなり得る大衆の自然発生的な闘いを即座に受け入れて、ともに闘いつつ変革をめざす能力と展望を持つことができるかどうかの問題である。そうしてこれは、思想の問題というよりも、政治的な分析と把握と展望の対象である。党が自然発生性を重視してそれにとけ込む能力をもつということ、党が自然発生的に組織されるということとは全く別の問題である。

「論文」は革命党の今日的必要の特殊な理由から出発しながら、これを思想闘争、なかでも主観主義・教条主義・観念論の清算に一般化して、ついには「自我」の克服にもとめつつ、最後には、「本質的に組織的な」労働者による「階級的な『組織された民主主義』」に到達し、革命党建設の問題を再び闘う労働者あるいは「労働者全共闘」に還元する。それは政治的な闘いと組織建設の闘いを思想闘争あるいは「論理」の確立に解消する結果となるばかりでなく、従来の党の誤ちを絶対化することによって、建設されるべき革命党とその「中央」を逆に神格化して、われわれの手のとどかぬ所に祭り上げることにならないだろうか。それは「神」をつくりあげることになるのではなかろうか。

われわれにとって、そうして現代日本の労働運動と革命運動にとって必要なことは、一切の「偶像」と「神」を廃棄し、われわれの手のとどく所から革命党の建設に着手することである。主観主義も教条主義も絶えずわれわれを待ち伏せているだろうし、まして「自我」は最後までつきまとうに違いない。われわれが恐れなければならないとしたら、それは主観主義・教条主義ではなくて、主観主義や教条主義を克服する保障をもたぬことである。しかしその保障は存在する。それは闘いの中にあり、組織の中にあり、理論の中にあり、政策の中にある。今必要なことは、共通の政治課題と共同の闘いで結ばれた集団を、統一した革命的組織にまで昇華させることであり、それは誰かがはじめなければならない課題なのだ。(一九七四・六・八)